井上靖記念館ー旭川市

井上靖(いのうえやすし)は、明治40年、旭川の現在春光6条武4丁目にあった第七師団の官舎で生まれました。生後一年未満で父の従軍を機に旭川を去っています。

井上には「しろばんば」「あすなろ物語」など自伝的小説があります。その中に「幼き日のこと」で次のように書きだしています。

「私は明治40年に北海道の旭川で生まれた。父は当時第七師団軍医部勤務の二等軍医であった。父(隼雄)は27歳で、母(八重)は22歳であった」
父にとって旭川は金沢医専を出て軍医になった最初の任地であり、新婚時代でもありました。当時の住所が今は「井上靖通り」(春光4条2丁目~5条2丁目)として整備されており、平成5年に井上靖の「幼き日のこと」の一節と夫人ふみの「靖と旭川」の一節を刻んだ文学碑がそれぞれ建っています。

井上靖文学碑(井上靖通り 建立平成5年)

自分が5月に生まれたということも、幼少時代の私にはすばらしいことのように思われた。

母が5月の旭川の百花が一時に咲く美しさを語るのを聞いたりすると、私は誰よりも恵まれた出生を持っていると思った。

寒い間、母の腹中にぬくぬくと仕舞われてあり、雪がとけ、春の明るい陽光が降り始めると、私は母の腹中から飛び出したのである。

井上ふみ文学碑(井上靖通り 建立平成5年)

昭和54年11月、北海道新聞社主催の文学講演会の折、靖に誘われ、初めて旭川を訪れた時の思い出をふみ夫人が書いた文章が記されています。

大雪山連峰をはるか右に見ながら、ゆるやかな丘陵地帯を車で走っている時であった。

「ここまで来ると広くていいな」

と靖が言った。

昭和54年11月、「僕が生まれたのはどんなところか行ってみようよ」と、私も同行した旭川であった。もう雪が降っていて、街路樹のナナカマドの赤い実が雪を被って美しかった。

靖は旭川には数回来てはいるが、いつも仕事で、自分の誕生の地などゆっくり見ている時はなかった。私と見に来た時は、靖が生まれたのはこの家であろうと、説明された。小さな古い官舎がまだ幾棟か建ち並んでいた。

偕行社はあったが、廻りは原始林で「昔はさぞ淋しい所であったろう」と話し合った。

今、靖の名が付けられた道路には、大小いろいろな木が植えられて、せせらぎもあり、春は百花が開き、四季が次々と移り変わり、やがて雪になって、赤い実のランプが灯る。

             平成5年7月7日 井上ふみ(明治43年~平成20年)