伊能忠敬の蝦夷測量は、別海町のニシベツ(西別)が最終地点でした。
理由は役人の便宜を得ることができずに断念をせざるを得なかったのです。
従って、この先の測量は間宮林蔵が測定して、亡き伊能の後に弟子に渡して完成しました。
「寛政12年(1800)閠五月十九日に蝦夷地(渡島半島吉岡)に上陸した忠敬一行が箱館、虻田、シャマニ(様似)、ビロウ(広尾)、クスリ(釧路)、アツケシ(厚岸)、アンネベツ(浜中町姉別)、フウレントウ(風蓮湖)と太平洋岸沿いに測量しつつ、ニシベツに着いたのは八月七日であった。
ニシベツ川に沿って仮家(仮会所)が十数軒、並んでいた。
子モロ(根室)御詰合御勘定大嶋栄治郎に会い、目指す子モロの東蝦夷地最東端のノサップ岬まで測量しなければならないから小舟を一隻貸し手ほしいと頼んだが、子モロ会所はいま総出でこのニシペツ川の秋味(鮭)漁を監督しているからと取り合ってくれない。秋味百尾を将軍家に献上することや築地(江戸)蝦夷掛会所などの話しも出てくる」
結局、忠敬一行は役人からの便宜を得られず、「門弟たちを近くの丘に登らせ、ニシベツから、クナシリ、子モロ、ノッケ(野付)がどの方角に見えるか、それを測定させた」そうして、八月九日朝、ニシベツを発った一行は、三十二日目の九月十一日の正午、はやくも箱館に着いた」