近藤重蔵蝦夷地探検 山道開削二百年記念碑ー広尾町

帯広は十勝の拠点ですが、南下すること約85キロの広尾町は帯広よりもずっと早く開けました。
寛政10年(1798年)に近藤重蔵は千島からの帰りみち広尾に立ち寄り、日高を目指して道路の開削を行いました。これが蝦夷地における本格的な道路づくり第一号になります。
区間は音調津(おしらべつ)に近いルベシベツから十勝国境を越えた日高側のピタタヌンまで。
平成10年、ピタタヌン山道口に「近藤重蔵 蝦夷地探検 山道開削二百年」と刻まれた顕彰碑が建てられました。この開削は後に最上徳内によって幌泉(襟裳町)まで通じました。十勝・日高間が人馬が往来できるようになりました。

碑文

近藤重蔵 蝦夷地探検 山道開削二百年 記念
国務大臣北海道開発庁長官 鈴木宗男
近藤重蔵 蝦夷地山道開削二百年記念

 江戸幕府蝦夷地探検の別働隊として近藤重蔵守重が率いた一行は、寛政十年(一七九八)四月江戸を出発、六月にトカチ(広尾)に到着、海岸の嶮難(けんなん)に九死に一生を得、艱難(かんなん)に耐え国後(くなしり)、択捉(えとろふ)島に渡り七月択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建て日本領土であることを宣言した。
 帰途十月、トカチに立ち寄り、海岸の嶮(けん)に山道を開削するために資を投じ、アイヌ六十八人を使い、ルベシベツからビタタヌンケの間約三里(十キロ)に山道を開削した。
 後世の史家は、松前藩治下にあっての重蔵の決断を「その果断、実に蝦夷地道路開削の嚆矢(こうし)として讃えている。
 工事の模様を記した「山道開発之記」『写』(弘化四年=一八四七)、寛政十年下野源輔(しもつけげんすけ)(助)=木村謙次の録した「東蝦新道記」(とうかしんどうき)(万延元年=一八六〇、函館奉行再せん)の彫字板がそれぞれ広尾町の禅林寺、十勝神社に所蔵されている。
 重蔵は文化四年(一八〇七)まで実に五回に亘る蝦夷地探検を行い、その著述も多い。
 重蔵は明和元年(一七七一)江戸に生まれ、遊島聖堂の学問試験に合格、長崎奉行手付(てつけ)、関東郡代出役(ぐんだいでやく)を経て蝦夷地探検にあたり、文化四年(一八〇七)幕府書物奉行(しょもつぶぎょう)の任ぜられ、後、大坂弓奉行を経て文政四年(一八二一)小普請(こぶしん)入り、息子富蔵の殺傷事件の咎(とが)で滋賀県大溝藩(おおみぞはん)(高島町)にお預けとなり、文政十二年(一八二九)雷鳴とどろくなかに死亡した。時に五十九歳。
 この山道はその後トカチ場所、ホロイズミ場所請負人により補修が繰り返され、明治に至り海岸道に隧道ができ、大正、昭和と、山道とともに併用され、昭和九年(一九三四)黄金道路が完成、開通するまで利用された。
 本年、近藤重蔵、蝦夷地探検道路開削二百年の記念にあたり、協賛会を設立し一般の浄財をいただき本碑を建立することになりました。

平成十年九月二十日
近藤重蔵 蝦夷地山道開削二百年記念事業協賛会