深田久弥「ニペソツ山・音更山と石狩岳」ー上士幌町
深田 久弥(深田 久彌、ふかだ(ふかた)きゅうや)
1903年(明治36年) – 1971年(昭和46年)
石川県大聖寺町(現・加賀市)生まれの小説家、随筆家および登山家。
福井県境に近い富士写ヶ岳(942メートル)は小中学校の遠足コースで12歳の時登ったのがきっかけで登山に興味を持った。第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進み、文芸部で堀辰雄や高見順と知り合う。また山岳部員。
東京帝国大学文学部哲学科に進み、昭和2年、在籍しつつ改造社に入社。懸賞小説の北畠八穂と知り合い、同棲を始めるとともに『オロッコの娘』などの小説を発表。これらの作品が好評だったことに勇気を得て大学を中退し、勤めを辞めて文筆一本の生活に入った。
昭和7年に発表した『あすならう』で文壇的評価を確立したが、発表した作品は北畠の焼き直しであった。このことに気付いた小林秀雄や川端康成から厳しくたしなめられたため、深田が独自に書くこともあったが駄作に終わった。
昭和10年に日本山岳会に入会する。昭和15年、北畠と結婚して夫婦となるが、翌年に初恋の木庭志げ子(中村光夫の姉)と再会して、脊椎カリエスで寝たきりの北畠を差し置いて志げ子と逢引を繰り返す。昭和18年、志げ子が深田の子を出産したことが北畠に露見。4年後に北畠と離婚し志げ子と再婚。激怒した北畠に小説焼き直しの件を暴露されたため、作家としての深田の信用は失墜し、10年以上にわたる雌伏生活を余儀なくされた。
1959年(昭和34年)から1963年(昭和38年)にかけて、山岳雑誌『山と高原』(朋文堂)で毎月2山の連載を50回行い、推敲の上で新潮社から1964年に『日本百名山』を出版。同書は昭和40年に第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞、人気作家に返り咲いた。
山岳作家としての深田久弥が昭和42年と44年に書かれた「ニペソツ山・音更山と石狩岳」からです。
「音更川を堰き止めた糠平湖畔の糠平温泉に泊まる。帯広から士幌線(廃線)が十勝三股まで伸びているが、そこは「袋の底のような地勢を示している。南だけ開いて、あとの三方は山に囲まれている。西にあるのが、ニペソツから石狩岳、音更山に続く山脈、北は三国山の連嶺、東はピリペツ、クマエシリなどの山脈、そしてその三方から来た川がここで会するので三股の名が由来する。」
「石狩岳は痩せた岩稜であった。その最高点は1962メートル、音更より30メートル高い。その頂上に私はヒマラヤの高山植物の種子を埋める名誉を与えられた。ヒマラヤの写生旅行から帰られた坂本直行画伯からゆだねられたのである。
すぐ眼下に、石狩川源流を育てる沼ノ原台地が見えた。その源流の中の源流は、この石狩岳から流れ出ているものだという。北海道の人で石狩川を口にしない人はあるまい。その大河が呱々の声をあげたばかりのところを、いま私は見ている。ここに発した一滴が、次第に仲間を寄せ集めて、ついに大海に注ぐ晩年期まで、この川が演じたさまざまのドラマこそ、北海道文学の豊かな題材であった」