遅塚麗水「北遊日記」ー狩勝峠
遅塚 麗水(ちづか れいすい)
1867年(慶応2年)-1942年(昭和17年)
明治・大正期の作家、新聞記者。本名は金太郎。紀行文の大家。
1867年2月1日(慶応2年12月27日)駿河国駿東郡沼津で長男として生まれる。一家は1876年に上京。
幸田露伴とは幼なじみで、ともに菊地松軒の迎曦塾で漢学を学ぶ。小学教員、逓信省の雇吏を経て、1890年郵便報知新聞に入社、作家となり『青年文学』の編集に携わる。
村井弦斎、原抱一庵、村上浪六との四人で「報知の四天王」と呼ばれた。日清戦争の従軍記者となり、帰ってからは都新聞に入社。享年77。
「狩勝の駅というのは、石狩と十勝との国境に設けられたる停車場なれば、斯く名けられたるなり、海抜二千尺の高原にて、西に東に光洋たる高原を見渡さるし。
「此の駅より展望すれば、十勝は実に樹の海なり、其海の尽るところ数十里に亘れる豆畑にて、大農制の事なれば隴畝の区画あることなく、誰だ渺漫として天に連なる、其の中を一線の汽車路の一直線に渡り来て、狩勝の高原に入れると息即ち紆余曲折してS字となり、之字となり、魚貫し、蛇行し、大うねり小うねり、相交わり相絡みて、八重欅のごとく紛れ合う、誠に天下の奇観なり」