八洲秀章音楽碑ー真狩村
八洲 秀章(やしまひであき)
1915年(大正4年) – 1985年(昭和60年)
作曲家。 本名鈴木義光。
虻田郡真狩村出身。農家の生まれ、17歳のときに馬車の事故で、農業や兵役への道を断たれるほどの後遺症が脚に残った。この時に病床でベートーヴェンの生涯についての書籍を読み、音楽家の道を志すきっかけとなった。
21歳で上京し、YMCAのオラトリオに参加。その後、山田耕筰に師事。
1937年(昭和12年)、「詩と歌謡」に投稿した「漂泊の歌」が同年ポリドールで東海林太郎の歌声でレコード化され作曲家デビュー。作曲家として活動を始めるが、2年後肺結核に侵され、長期療養を余儀なくされる。
1940年(昭和15年)6月、伊藤久男の「高原の旅愁」で復帰。
1943年(昭和18年)日本映画学校(大日本映画協会付属)入学。
卒業後「出陣」「寒駅」「肉弾挺身隊」に出演、その後同校音楽講師として指導、並行して「八洲秀章とその楽団『黎明』」結成、戦後は楽団を率い、歌手志摩光一としても活動、また俳優として1951年(昭和26年)「ドレミハ先生」に主演した。その後は兄の諫めも有り音楽一筋で行く事を決意する。
「さくら貝の歌」「あざみの歌」「毬藻の唄」を作曲したことで知られる。
「あざみの歌」は、自身の歌唱で1949年(昭和24年)8月8日からラジオ歌謡で1週間放送し、その後、のど自慢等で歌われるようになり、1951年(昭和26年)、伊藤久男の歌唱でレコード化された。
1985年(昭和60年)12月30日死去。享年70
あざみの歌
横井 弘 作詞
八洲秀章、作曲
高嶺の百合の それよりも いとしき花よ 汝(な)はあざみ |