上杉朋史「西田信春―甦る死」ー新十津川町

上杉朋史(うえすぎともし)
1943年(昭和18年)ー2018年 札幌郡琴似町に生まれる。
北海道学芸大学札幌分校(現・北海道教育大学札幌校)を卒業。同年より37年間、北星学園男子高等学校(現・北星学園大学付属高等学校)で社会科教師をつとめる。2003年に同校を退職。2018年10月11日、死去。

西田 信春(にしだ のぶはる)
1903年 – 1933年2月11日    戦前の社会運動家・平和運動家。

1903(明治36)年岩見沢生まれ、新十津川村で育ち、札幌一中(現南校)から東京帝大に進み、学生団体「新人会」で農民運動に傾倒。
卒業後は組合書記に。1929(昭和4)年日本共産党に入党。

小樽高等商業学校での軍事演習に対する抗議行動に端を発した軍事教育批判が全国の大学に広がる中、治安維持法改悪により私有財産制の否定や平和運動が処罰の対象となった1925年秋、新人会に参加し、石堂清倫らと活動を始める。
1925年から1926年1月にかけて「青年夏季学校」の一員として雨竜村の小作争議、蜂巣賀農場に応援に入る
新十津川町にある札沼線廃駅跡の「西田信春小公園」には西田信春の記念碑があります。

昭和8年2月10日、九州地方空前の共産党弾圧で検挙(508人)され、福岡警察署で拷問の挙句に30歳の若さで虐殺されました。それは小林多喜二が虐殺される9日前の事で、2人は裁判の裁きによってではなく、警察権力による拷問と暴力による即日の私的死刑でした。

『西田信春‐甦る死』の最終章に「死体鑑定書」があります。

「足を持って階段を上から下、下から上と4~5回やったら死んだ」と警察官から聞いたとする医師の証言が記録されています。
「死体鑑定書」の記録こそが、西田信春の拷問による死を証言しました。