夏堀正元「寅吉懺悔ー明治凶徒伝ー」ー標茶町・網走市
夏堀 正元(なつぼり まさもと)
1925年(大正14年) – 1999年(平成11年1月4日)死去。73歳。小説家。
小樽市生まれ。
小樽地方裁判所の判事を務めていた夏堀悌二郎(のちに北海道会議員、公選初代の八戸市長)の子として生まれる。
北海道新聞社社会部記者をつとめ,昭和29年執筆生活にはいる。35年下山事件に取材した「罠(わな)」で社会派作家として評価される。
近現代史を舞台として、反体制的な、民衆中心の思想を描いたものが多い。
「寅吉懺悔ー明治凶徒伝」は、五寸釘寅吉の物語です。
「釧路集治監には軍人、軍属、元巡査などの国事犯が多かった。明治24年、大津でロシア皇太子を襲って負傷させた巡査の津田三蔵は、とりわけ有名な囚人だった。
ここでは足の鉄丸のかわりに、首に鉄環、足にはダラハメと呼ぶ分銅つきの鎖がつけられた。
また、逃走を企てた者は、タガネで責つけられた。タガネというのは、囚人の耳に穴をあけて、そこに鎖をとおして足へ縛りつける拷問道具である。
寅吉はここでもまた、国家権力の非人間的な恐ろしさを知らされた。第一、作業自体もひどかった。午前二時にたたき起され、夜の七時まで、道路工事や伐採に働かされたのである。根室や網走への幹線道路を囚人の手で、安く早く仕上げるためであった。
だが、おめえはまだいいさ。あのアトサヌプリ鉱山の作業を知らねえからな」
標茶に釧路集治監が設置されたのは、明治18年でした。当時は社会不安が原因で囚人の数が増加し、収容施設の増設と北海道の開拓を目的に、明治14年に樺戸集治監、翌15年に空知集治監、その三年後には釧路集治監が次々と開設されました。
収容されたのはいずれも全国の監獄から送られてきた刑期10年以上の重刑囚ばかりでした。釧路に開設された年の囚人の数は192人でしたが、もっとも多かった明治29年には1,371人になっていました。
その当時の収容者は有期徒刑が695人、無期徒刑が649人、さらに有期流刑12人、懲役終身者65人でした。
網走集治監は、明治24年に釧路集治監網走分監として設置されました。
アトサヌプリ鉱山は、弟子屈町にある標高は512mの硫黄山のことです。