福永武彦「心の中を流れる河」ー帯広市

(ふくなが たけひこ)
1918年(大正7年) – 1979年(昭和54年)
小説家、詩人、フランス文学者。

東大病院を退院した福永武彦が予後を養うためと疎開で帯広に来たのは昭和20年4月で27歳の時でした。夫人の父親が協会病院事務局長をしていた縁によるもので、池澤夏樹(昭和63年芥川賞)は昭和20年に帯広で生まれました。

 

「心の中を流れる河」は帯広を舞台とした小説で、帯広を去って十年後の発表でした。

『そのとき彼は、忍びやかに二階から降りて玄関を出てゆく物音を聞く、梢にちがいない。// オーバーを引っかけて音のしないように家を出た。三月の末だったが、この北の国では冬はまだ立ち去っていなかった。骨に沁みるような風に吹かれながら、広い通りの左右を覆いみて、彼は考えた。// 右へ二町ほど行けば踏切に出る。しかし、梢が死ぬ気だとは思えないし。右へ行って、次の通りを右に曲がれば停車場に出る。たしか十二時近くに、引き続いて下りと上りとがある筈だ。それに乗る気だろうか』

『梢は「兄さん、わたしのあとをつけて来たの?」と聞く。「こんな橋の上で、お前は何をする気なんだ?」。梢はかすかに笑ったようだった。
欄干の下には、まだここに町が出来ず、アイヌが鮭を取っていた頃から、そしてもっと昔、原始林がすくすく茂り熊がここに水を飲みに来た頃からの河が音高く流れていた。
梢は「わたしの心の中を流れている河の音かもいれない」と思う。』