新田次郎「野付牛の老尼」ー北見市

新田 次郎(にった じろう)  本名:藤原 寛人、
1912年 – 1980年、小説家、気象学者。

長野県諏訪郡上諏訪町角間新田(かくましんでん)(現在の諏訪市上諏訪角間新田)に藤原彦、りゑの次男として生まれる。
ペンネームは“新田の次男坊”から(「しんでん」を「にった」と読み替え)。
神田電機学校(現在の東京電機大学の母体)卒業。気象庁職員として富士山気象レーダー建設などに携わる傍らで作家活動を行い、『八甲田山死の彷徨』など山岳小説の分野を拓く
新田次郎・昭和新山ー有珠郡壮瞥町

新田次郎の小説に「野付牛の老尼」があります。
北見市川北の信善光寺を開いた住職吉田信静尼は、大正12年、地蔵尊がわりにと屯田兵人形の製作を思い立ち、胴は木、顔は土、高さ70㎝の人形75体を作りました。信善光寺は常呂川をへだてて市街地を見下ろす高台にあり、桜の名所にもなっています。

「野付牛の老尼」は住職吉田信静尼がモデルですが、「私は現地に取材にいったのは昭和48年の10月であった。これは飽くまでも小説であってフィクションであって、実録ではないことを、ここではっきりおことわりして置く」と書かれています。

「あるとき小林源太郎にすすめられる。『法静尼さん、屯田兵人形を作って見ないかね、屯田兵としてこの地に入植した当時の写真をもとにして、人形を作って、飾り、それを寺に置いたらどうか。一人ふたりではいけない、できることなら、あのとき入植した屯田兵全員の人形を作って残して置きたいものだ』。
この話は法静尼の心を動かした。名古屋の人形師に注文し、昭和元年になって最初の三体が完成しまた。観音堂に安置した。
『軍服姿の屯田兵の像はなかなかよく出来ていた。胴体、手足はサワラの木を彫って作り、顔は土を材料として作り上げてあった。写真を見て作ったにしてはよくできていた。若かりしころの本人を彷彿とせしむるものがあった。紺の軍服も、赤い襟章も、銃も、腰にさけている銃剣もよくできていた。肩にそれぞれの名前を書いた布札が下げてあった』法静尼さんからお経を上げて貰うのは悪くない、と立ちどころに二十体の申し込みがあった。