宮沢賢治「春と修羅」ー稚内市
大正12年7月、27歳の宮沢賢治は夏休みを利用して樺太への旅を行いました。
前年に妹トシを亡くし傷心を癒すためと、教え子の就職を遠く樺太に求めることが目的でした。
旅は列車で、青森~函館~噴火湾~旭川~稚内~樺太と、それぞれの風景が賢治の見る目で詩として残されています。
旭川から現在のJR宗谷本線と天北線を経て稚内まで約8時間の旅でした。当時の稚内の終着駅は、現在の南稚内駅です。
8月2日に稚内に到着し、航路が開始されて間もない稚泊(稚内ー大泊)連絡船の人となり、翌3日に樺太に上陸。
詩集「春と修羅」(大正13年4月20日初版)には「オホーツク挽歌」が収められています。
海面は朝の炭酸のためにすつかり錆びた
緑青のとこもあれは藍銅鉱(アズライト)のとこもある
むかふの波のちぢれたあたりはずいぶんひどい瑠璃液だ
サモシイの穂がこんなにみぢかくなって
かはるがはるかぜにふかれている
(それは青いいろのピアノの鍵で
かはるがはる風に押されている)
あるひはみぢかい変種だろう
しづくのなかに朝顔が咲いている
モーニンググローリのそのグローリ //
長い詩で、まだまだ続きます。
賢治が再び稚内に戻ったのは8月10日でした。