前期屯田の進展
話が前後しました。屯田兵5と4は入れ替えてください。
初期の屯田兵募集は原則として士族が対象でした。
身分や年齢の制限を満たすため、養子縁組を行なうものがあり屯田養子といった意味合いがありました。募集当局では、平民を拒む意思はなかったので、ここから問題が起きることはありませんでした。
後に士族原則が取り払われると、新兵の身分比はほぼ人口中の身分比に等しくなります。
前期を士族屯田、後期を平民屯田として時代区分することがあります。
屯田ははじめ札幌近くの石狩地方に展開し、しだいに内陸や道東部などに範囲を広げます。
屯田兵は、二百余戸の中隊を一つの単位として兵村を作り、中隊はいくつか集まって大隊を編成しますが、大隊レベルの編成はしばしば変わりました。
はじめ、屯田兵は開拓使の屯田事務局(後に屯田事務係)の下に置かれた。開拓使が廃止されることになると、陸軍省に移管されました。
陸軍省のもとで屯田兵の所管組織は屯田兵本部、屯田兵司令部と改称し、一般の部隊の編制に近づきます。
陸軍省のもとで屯田兵の所管組織は屯田兵本部、屯田兵司令部と改称し、一般の部隊の編制に近づきます。
屯田兵本部長、屯田兵司令、そして後に設置される第7師団長は、永山武四郎が務めました。
徴兵制だった当時の日本において、屯田兵は長期勤務の志願兵制という点でも特殊でした。
法制上は兵卒から仕官への昇進の規定はありませんが、実際には昇進者もあり、後期屯田の幹部となった者もありました。
屯田兵は明治10年(1877年)に西南戦争に参加して戦闘を重ねました。
このとき、増援のために屯田予備兵が編成されましたが、訓練中に戦争が終結に向かったため、こちらは実戦を経験しませんでした。戦後、屯田予備兵は普段は生業に就き、戦時と年1度の演習時にのみ召集される兵士として、そのまま常置されます。予備兵は明治14年(1881年)に廃止されました。