新天地 入植の二日目
まず家のまわりを広げるところから始まった。
打ち寄せる笹の波に、小屋は押し流されでもするように見えた。それに暗い。
昼食のとき、小屋の前に立って、ため息をついた。わずかの空き地が開けたにすぎなかった。
次の日から、ていねいに耕すのをやめた。まず刈る。細い木には斧を入れるが、大木はほうっておく。
切り株を掘り起こすなどとはまるで考えられない。土地が広がるにつれて、笹に火をつけた。巨大な葉っぱは燃えながら舞い上がり、形のまま白い灰になって落ちてきた。生木のままバチバチと炎をあげた。
土はどうやら肥えている。湿地や泥炭地のくじをひいた者もあるという。そばに細い小川があるのはありがたかった。さしあたって井戸を掘る手間がはぶけるというものだ。
風呂をつくる
滝川に一緒に十津川から来ていた杉本商店があった。
「鉄板を手に入れてきた。前から頼んでおいたものや。今になって、やっととどいた」
大きな座布団ほどの鉄板は、赤くさびていた。
森の中へ入っていくと、二抱えもあるような木を抱いてきた。
「中はがらんどうや」
ヤチダモの大木でうろになったのを見定めておいたのである。
大切に、大切に切り倒してあった。
中はらくらくと大人がくぐりぬけられるほどの穴があいていた。
三尺ほどに切った木の端に鉄板をあてるのを見て叫んだ。
「あっ、風呂や」
二年目の春(明治24年3月)
秋から着工していた二つの小学校が出来上がった。
西から来る徳富川は、村を南北に分けて石狩川に流入している。川を挟んで北と南に、二つの小学校が出来た。費用は村の基金をつかった。
道庁の補助金もでた。それだけでは足りないので、どの家からも代わる代わる作業に出た。家に子どもがいても、いなくても、弁当を持ったもっこ担ぎが大勢あつまっていた。
十津川はもともと教育に熱心なところだ。元治元年(1864)には文武館という学校ができている。
朝廷から派遣された学者もやってきた。ご下賜金も出ていた。文武館はいちじ平谷師範学校と名を変えた。明治15年のことだ。領主のいなかった郷としては異例のことといえる。部落ごとにあった寺小屋を初等教育とすれば、文武館は中・高等教育にあたる。生徒は男子だけと決められていた。
分村して北海道へ来てからも、滝川の兵舎で寺小屋が開かれていた。引っ越しのために中断していた学校が、9か月ぶりに開かれることになった。
開校して校長が赴任してきて「歌を教えてやろう」という。
【島地の地形は飛ぶ鳥の 翼を張るにさも似たり 頭は渡島 尾は千島 南に豊かな秋津島 北なるワシはおそろしや 北の門戸を閉ざすのはかりごと ひらけやひらけ北海道 み国のためなり君のため】
北海道開拓をすすめる歌だという。秋津島とは日本のこと。北なるワシとはロシアだという。ロシアに備えて北海道をひらかなければならない。
(北へ行く旅人たちは終わります)