ちなみに、明治29年以降次々と団体の入地が続きます。

芽室町     愛知団体      明治29年
池田町     池田農場      明治29年
豊頃町     興復社       明治30年
本別町          利別農場       明治30年
音更町          富山県移民      明治30年
広尾町          桐渕農場     明治31年
足寄町          函館農場     明治31年
清水町          十勝開墾㈱      明治31年
士幌町          美濃開墾㈱      明治31年
新得町          山形団体     明治32年
陸別町          関農場      明治34年
中札内村         大井上農場      明治34年
浦幌町          土田農場     明治34年
上士幌町         長野団体     大正  2年
更別村          島根団体       大正  6年
鹿追町         天理教団体     大正  5年

依田勉三は、大正 13 年(1924)、春より中風(ちゅうぶ)にかかります。
9 月 16 日、看病疲れで、サヨが先立ち、その後リク(最初の妻)が伊豆から来ますが、勉三と口論となり12 月に再び伊豆に戻ってしまいます。
その後病勢は日ごとに悪化して、大正14 年(1925)12 月12 日、十勝開拓45 年に苦闘の生涯を捧げた依田勉三は、帯広町西 2 条 9 丁目の自宅で「晩成社にはなにも残らん。しかし、十勝野には・・・」と語り静かに息を引きとったといわれます。享年73 歳でした。

開拓にかけた勉三の不屈の精神と晩成社の試みは受け継がれて根付き、それらが後に続いた者の目標となって、帯広・十勝が築き上げられ依田勉三は十勝開拓の祖と言われるようになりました。