日本人開拓のプロ

幕末に大友亀太郎が北海道開墾に派遣されます。幕府は二宮金次郎を指名してきましたが年齢的に無理で、推薦した代行でした。
維新後、新政府がお雇い外国人を70数名北海道に注ぎ込みますが、日本人のプロフェッショナルとして最初に来道した人物です。 

返す返す思いますが、明治維新後の新政府・開拓使は東京での指揮でした。
蝦夷地は、元々アイヌ民族が先住民として生活をしていたところです。現地で指揮をとらなければ、実情は把握できるものではありません。

新政府となり、大友亀太郎は新政府のやり方に大いに不満であったのでしょう。
初代判官の島義勇が三顧の礼で大友亀太郎を留めようとしますが、故郷の小田原に帰ってしまいます。
亀太郎は開拓は科学的に分析して進めるもので、素人が何の知識も道具もない状態で原始林に向かわせても危険すぎると考えていたと思います。二宮尊徳の教えと実践がそれを実証していたのです。
私の推測ですが、亀太郎が最も憤慨したのは仙台岩出山藩の移住先として、調査をしていた現当別町を予定していました。それを簡単に反故にされてしまいます。

探検家、松浦武四郎も新政府に判官の命を受けるが蝦夷地へ命令が下されず東京待機でした。我慢しきれずに辞職してしまいます。
また、「アッシ判官」と呼ばれた松本十郎は、黒田清隆が探し回りますが厚田のアイヌ部落から出てきません。これは樺太のアイヌ民族を松本は、故郷に近い稚内に移住させようとしますが、黒田は一方的に現在の江別市雁来に決定してしまいました。

屯田兵の宿舎が今も当時のまま残されています。中を覗けばとても寒冷地では住める建物ではありませんでした。
それでも、依田勉三たちの拝み屋よりはましでしたが。

開拓使長官「黒田清隆」も、屯田兵司令官「永山武四郎」も薩摩藩でした。

写真は大友亀太郎が開発した北海道水田発祥地の北斗市です。