<仁木町の開拓>

仁木

仁木竹吉 (にき-たけよし) 1834-1915

徳島県が北海道の開拓にあたって大きなよりどころとしたものは藍作・製藍事業でした。藍は徳島の特産品であり、江戸時代から明治のはじめにかけて阿波の基幹産業として発達し産業経済を支えました。

灌混用水を必要とする米作りが道内に普及するのは、明治中期以降であり、北海道開拓の初期における農業の主体は畑作農業です。
この意味でも藍作を得意とした徳島県人にとっては、藍業は北海道開拓に大きな武器となりました。

藍作にはじめて取り組んだのは、庚午事変の後、日高の静内地方に移住した稲田家家臣団でした。
明治4年6月静内郡において葉藍が試作され、明治12年より本格的に藍の製造に乗り出します。北海道開拓使も、殖産興業策の一環として藍業に注目しました。

稲田家の影響を受け北海道への開拓移住を画策していた仁木竹吉は、明治8年「殖民ノ儀ニ付願」を開拓使に提出。
阿波における藍作の難渋が魚肥の高騰によるとして、鯨〆粕の生産地である北海道において藍作を行うことを移住の理由にあげていました。
明治12年仁木竹吉は、徳島県の麻植・美馬・三好の農民117戸360余人を余市原野に入植させ、翌13年この地において藍作を開始しました。
明治17年仁木村ではりんご栽培、大江村では稲作の試作を始め、上道村との三村の合併により、明治35年には大江村に。
昭和39年になって今までの「大江村」を「仁木町」に改めました。