北海道人のルーツ 2
松前町にある「松前城」が造られたのは安政元年(1854年)3月のことです。
徳川幕府の一角として松前藩を興した初代藩主松前慶広(よしひろ)は、慶長5年(1600年)から6年間かけて、徳山館の南の台地に福山館を築きました。
そうして、アイヌに対しては「城」、幕府には「館」と言いました。
松前藩は徳川幕府の藩とはなっても米の取れない蝦夷地で無石の来賓待遇だったのです。
当時「城」を無断で建てることは許されず、慶広は幕府に対しては「館」を新築したと言ったのでしょう。
しかし、幕末になると蝦夷地に外国船が横行する時代になり12代松前藩主崇広(たかひろ)の時に、ようやく松前城(正式には福山城)を持つにいたりました。
明治元年まであと14年の年月でした。
松前崇広(たかひろ)の時代
崇広は嘉永2年(1849)、異例の福山築城を命じられます。
館主ではなく、ここで城持大名になりました。
城域は23,578坪、本丸二の丸・三の丸にわけ、城門16、城楼6、砲台7座をそなえ、柵を二重にしたものでした。
ついで、箱館弁天台場・山背泊・押付の三台場を築造。また、崇広は様式大砲の建造なども実施したといいます。
ところが、福山城が完成した安政元年(1854)3月、幕府はアメリカ合衆国提督ペリーの圧力に服し、日米和親条約を締結しました。
この条約で伊豆の下田と、箱館を開港することになります。
ペリー艦隊は、早速4月に箱館港調査に来航します。
松前藩および住民にとっては驚きと恐怖で大騒ぎとなります。松前藩は、箱館警備に派兵するとともに、箱館住民にたいして、アメリカ人来航のさいの「心得書」を配布します。
「見物の禁止、海に面した戸障子の目張り、酒をかくすこと、仏事などの禁止、婦人・子どもを山手へ疎開させること」
アメリカ人が日用品を求めてきたときのとるべき処置など、こまごまと注意を与えました。住民は荷物を車に積んで、近くの村に疎開するなど、大騒ぎであったと当時の記録が残っています。
写真は松前藩時代のテーマパーク(松前町)