北海道人のルーツ 2 安政元年(1854年)

北海道人のルーツ 2

 
 
 

松前崇広(たかひろ)の時代

松前嵩広

崇広は嘉永2年(1849)、異例の福山築城を命じられます。
館主ではなく、ここで城持大名になりました。

城域は23,578坪、本丸二の丸・三の丸にわけ、城門16、城楼6、砲台7座をそなえ、柵を二重にしたものでした。

ついで、箱館弁天台場・山背泊・押付の三台場を築造。また、崇広は様式大砲の建造なども実施したといいます。

 

ところが、福山城が完成した安政元年(1854)3月、幕府はアメリカ合衆国提督ペリーの圧力に服し、日米和親条約を締結しました。
この条約で伊豆の下田と、箱館を開港することになります。
ペリー艦隊は、早速4月に箱館港調査に来航します。

慶応3年ころの福山城

松前藩および住民にとっては驚きと恐怖で大騒ぎとなります。松前藩は、箱館警備に派兵するとともに、箱館住民にたいして、アメリカ人来航のさいの「心得書」を配布します。

「見物の禁止、海に面した戸障子の目張り、酒をかくすこと、仏事などの禁止、婦人・子どもを山手へ疎開させること」
アメリカ人が日用品を求めてきたときのとるべき処置など、こまごまと注意を与えました。住民は荷物を車に積んで、近くの村に疎開するなど、大騒ぎであったと当時の記録が残っています。

写真は松前藩時代のテーマパーク(松前町)