駒ヶ岳のいわれ―七飯町ー
今から500年ほど昔、このあたり一帯は、夏は流行病、冬は海が荒れて船が転覆し、たくさんの人が亡くなったのです。そのころ、この地方を治めていた相原季胤という殿様は、どうすることもできず、神社を建てて、神さまの怒りを鎮めようとしました。
その時、一人の年をとった占師が、
「たくさんの娘を、いけにえにするのじゃ。そうすれば、神の怒りもおさまりましょう」
と、申し上げると、殿様は、すっかり、占師のいうことを信じてしまい、さっそく、20人ものアイヌの娘ばかりを、無理やり連れ去り、崖から海に突き落としてしまいました。
怒ったアイヌたちは、殺された娘たちの恨みをはらそうと、一丸となって、すさまじい反乱を起こしました。
戦は、福山(松前)で行われましたが、殿様の軍隊は、たちまち負けてしまいました。殿様は、やっとのことで、二人の姫を救い、逃れ逃れて、この山の近くの軍川というところまで落ち延びてきました。でも、アイヌたちは、すぐに探しあててきて、殿さまたち三人は、大沼の水際に追い詰められてしまいました。
「わしらの娘を返せ。わしらの恨みを、受けてみろ」
四方八方から攻め立てるアイヌたちの勢いに、こらえきれなくなった二人の姫は、互いに抱き合って、ついに、湖に身を投げてしまいました。
殿様は、姫たちの名を叫びながら、最後の力を振り絞って、突き出される槍や刀を左右に払い、傷つきながらも、馬を走らせて追っ手から遠ざかり、ようやく、一息つくと、目をみはるような大沼が、木々の影を湖面に映して、青く広がっていました。
殿様は思いました。
(城も落ち、家来も全滅。愛する姫まで失って、生きていくはりもない。ここで、いさぎよく死のう)
でも、最後になって気になるのは、今のいままで生死をともにしてきた愛馬のことでした。殿様は、馬から降りると、鞍をはずしてやり、馬の背中を優しく撫でながら、
「長い間、良く尽くしてくれた。わしは、ここで、最後を迎えるが、おまえまで道連れにするわけにはゆかぬ。一刻も早く、ここを立ち去り、あの山の奥にでも、逃げ延びるのだぞ」
と、湖の向こうに聳える、美しい山を指さしながら、しみじみと、話しかけてやりました。
それから、殿様は湖のふちに立つと、静かに手を合わせて、そのまま、深い湖の中に身を沈めてしまったのです。
残されて馬は、悲しみのあまり、しばらくは気が狂ったようにいななき、たてがみを震わせていました。やがて、何を悟ったのでしょうか、急に、すっくと立ちさっき主人が指さした山を、きっと見すえると、ザンブとばかり湖に飛び込み、そのまま、湖を渡って、その山の峯をいっきに駆け上がり、山奥深く、姿を消してしまいました。
それから、毎年、この日(7月3日)になると、この山の裾野から、悲しい馬のいななきが聞こえてくるようになったのだそうです。
そして、いつとはなしに、この山のことを村の人は、駒ヶ岳と呼ぶようになりました。
相原李胤とは、中世のころに現在の函館空港近くから上ノ国に「12の館」が作られました。その時に松前に建てた「大館」の館主のことです。