でかけられる神さま―岩見沢市ー
ずっと昔のお話です。北海道がえぞと呼ばれていた頃です。
山には大きな木が茂り、熊やきつねや鹿があそび、石狩川にも幌向川にも多くの魚がたくさん泳いでいました。土地のよい場所に僅かな人々しか住んでいませんでした。
仙吉という若者もその一人でした。人々は部落の小高い丘に小さな祠をたてて氏神様として大切にしてきました。
いつかのぼりや太鼓が寄進され、春と秋にはお祭りがされるようになりました。それから何年かたちますと、誰もお詣りをする人もいなくなりました。しかし仙吉だけはその道を通るたびに必ずこの小さな祠にお詣りをしていました。
或る時はとってきた魚を供え、ある時は畠でとれた薯を供え、時には野の花を、秋には山ぶどうやこくわの実などを供えたこともありました。そうしているうちに仙吉はいつか部落の中でおもだった人に選ばれるようになりました。そして時には近くの部落にも招かれてゆくような立派な人になりました。
ある秋の日でした。少し遠い小さな部落に寄り合いがあり仙吉も招かれて朝早く出かけました。峠の道祖神にいつものようにお詣りをしてゆきました。
むづかしい寄り合いの話は夕方おそくまで続きましたが、集まった人々は仙吉の話に意見がまとまり、仙吉も大役を果たして帰ることになりました。夜道を提灯を頼りに峠道を歩いているうちに、いつか藪原の中の道にまよいこんでしまいました。どんよりと曇った夜空には星一つ見えません。遠くの方で何やらけもののほえる声がすざまじく聞こえてきました。持っている提灯のあかりもなくなりました。そしてまっ暗やみの中に唯一人おかれていました。仙吉は一心に神様に祈りました。その時でした。遠くの方から──仙吉やあい──と呼ぶ声が聞こえてきたのです。そして提灯をつけた老人が近寄って来ました。
「やあー。こんなところにいたのかや。さあ私と一緒に村へ帰ろうぞ。」
とその老人が声をかけると先にたって歩き始めました。今まで藪原であったと思っていたのに老人の歩く所はせまいけれども村の道と変わらないのです。そしてすぐにいつも仙吉がお詣りをしていた小さな道祖神の前に着きました。
「ご老人」
と仙吉は問いかけました。
「ご老人はどちらの方ですか。私は仙吉と申す者ですが、ご老人はどうして私があの山の中にまよっていたことを知られたのですか」
と申しました。すると老人は、
「いや今朝早くお前さんが出がけによっていったのでなあ。」
といい、
「さあこれを持ってお帰り。此処からならもう大丈夫だろうから」
と仙吉に提灯を渡すと、すうっと消えてゆきました。
仙吉はこれは神様だと思い、道祖神の前に走って行って何度もお礼をいって神様からもらった提灯を頼りに家に帰ってきました。この話が多くの人々に伝えられ、小さな道祖神にお詣りする人が多くなりました。そして旅に出かける時には必ずこの神様に無事を祈ることになりました。そして無事に旅から帰ってくるとお礼詣りにゆくことがならわしになりました。
今もこの神様は時々道にまよった人を助けに出かけられるといわれています。
何年か経ちました。村は、志文と呼ばれるようになりました。
そして、明治も半ばを過ぎたある年、日本は、外国と戦をすることになりました。この村から、若者たちが戦争にでかけました。
村に残った仙吉をはじめ、年よりや女たちは、神さまも戦争に行って早くこの戦争を終わらせ、若者たちが元気に帰ってくるようにと、毎日、氏神さまにお詣りをしていました。その年のくれのある日、いつものように、みんなでお詣りをした後、太鼓を打ちましたが、不思議と太鼓が鳴りません。二度、三度と打ちますが、どうしたことか、さっぱりなりません。ばちが当たるたびに、ド、ド、ドと、鈍い音がするだけでした。
もうすっかり年寄りになっていた仙吉は、
「神さまも、若者と一緒に戦争に行ってくださったのだ。いま、この祠の神さまは、お留守なのだ。きっと、この戦は、神さまのお陰でもうじき終わり、若者は、みな、無事に帰ってくるだろう。ありがたいことだ。ありがたいことだ。氏神さまが、ついてくださっとる」
と、いいながら、改めて、みんなと一緒に、一心にお祈りをしました。
あくる年の正月の朝、仙吉をはじめ村の人びとが、初詣に集まりました。そこで、太鼓を打ちますと、今度は大きな音を響かせて、ドーン、ドーンと鳴りました。
村びとたちは、一斉に頭を下げて、
「ああ、ありがたい。神さまが帰ってこられた、戦争は、きっと終わったのだ。村の若い衆も、すぐ帰ってくるだろう。神さま、ありがとうございました」
と、お礼をいいました。
村びとが考えたとおり、戦が終わり、村の若者たちは、みんな、無事に帰ってきたといいます。