塘路駅(とうろえき)
観光客に人気の釧路駅を出発したノロッコ号の終着駅は「塘路駅」になります。
この鉄道はJR釧網線(釧路~網走駅)が本来の路線で、それを行楽の時季に塘路駅までを往復しているのです。 「塘路駅」があるのは標茶町で駅から釧路湿原まで歩いていくこともできます。ログハウス風の塘路駅舎には「湿原に出会える塘路駅」という看板が掲げられており、これが全国でも珍しく、駅舎は「ノロッコ&8001」と言う名の喫茶店になっています。 小さな駅舎には、鉄道関連の品が展示され、近隣の塘路湖はカヌーポイントとしても親しまれています。
釧路集治監
かつて標茶の町に「釧路集治監」がありました。釧路といいますが釧路市ではありません。
釧路から網走までの釧網(せんもう)線は、囚人によって開かれた鉄道です。網走刑務所は「網走番外地(映画)」で有名になりましたが、この刑務所は明治23年に釧路監獄署網走囚徒囚外役所として開設されたものです。
標茶に釧路集治監が設置されたのは、明治18年。当時は社会不安が原因で囚人の数が増加し、収容施設の増設と北海道開拓を目的に、明治14年に樺戸集治監、翌15年に空知集治監、その三年後には釧路集治監が開設されました。収容されたのはいずれも全国の監獄から送られてきた刑期10年以上の重刑囚ばかりでした。釧路に開設された年の囚人の数は192人でしたが、もっとも多かった明治29年には1,371人になっていました。旧釧路集治監は現在郷土資料館として標茶市街地にあった釧路集治監庁舎を移築したもので、それに隣接して駅逓も復元されています。その傍らには「標茶町発祥の地」の石碑が建てられています。
標茶のはじまり
標茶(しべちゃ)はアイヌ語の「シペッチャ」という発音がなまったもので「大きな川のほとり」の意味です。町の中心に母なる川「釧路川」をはじめ、別寒辺牛川、西別川の三大河川により産業と開拓の歴史が刻まれています。
蝦夷のころはアイヌの人たちが現在の塘路湖畔沿いに散在し、漁猟を行っていたといいます。明治17年ごろになると和人が2戸移住し、モロコシやネギを作っていました。また、釧路川に沿ってサケの番屋やアトサヌプリ硫黄運搬取扱人の小屋が点在し、それに伴い雑稼業も増えてきました。明治18年、釧路集治監が設置されて一変します。
囚徒は硫黄採掘事業や道路の開削、屯田兵屋の建設などに従事し、それにより釧路にもみられない繁栄となります。明治21年、囚人によって道路が開かれ標茶に駅逓が設置され、硫黄は標茶の硫黄製煉所で製煉されていました。
明治25年、香川県出身の高岡縫殿の貫誠社が移住し、この村最初の集団移民でした。また、原野の区画設定も行われ、明治29年から貸し付けを開始され、山梨団体が10戸余入りました。
明治34年、集治監が廃止になり活況が落ち込みますが軍馬補充部川上支部が設置され馬産の振興で持ち直しました。
標茶駅からの標津線
標茶町は釧路駅から釧網線に乗り約1時間で標茶駅に到着します。
標茶駅は平成元年(1989)まで標津線の起点駅でもあり、中標津を通り野付半島の付け根の町で根室標津駅まで10駅ありました。
30年以上も前の話ですが釧路から釧網線に乗り標茶駅で標津線に乗り換えて中標津まで月に一度札幌から出かけていました。当時は札幌から釧路まで特急で5時間。本数の少ない釧網線・標津線なので釧路で一泊して早朝の釧網線に乗りました。列車に乗っているだけでも8時間はかかりました。北海道は広いところだとつくづく考えさせられました。
ところが、この標津線は1989年(平成元年)に廃線となり、中標津までは釧路駅前から阿寒バスで別海町の大平原を通り2時間かかる旅となりました。別海町は人の数より牛の数の方が圧倒的に多い町です。大平原を走るバスは停留場など関係なく手を挙げればどこでも乗り降りできました。
長い旅でしたが、釧網線では素晴らしい世界に出会いました。標茶駅の二つ手前に「茅沼駅」があります。それは冬でしたが、駅に到着して顔を上げると駅前の雪原にタンチョウが飛来してきていました。真っ白な中に鶴が何十羽も飛来しているのですからビックリです。この駅は国鉄時代の駅長さんが餌付けをしていた「タンチョウが飛来する」駅でした。このような幻想的な風景はその後見たことがありません。
10年ほど前に釧路に行った時に標茶までクルマを走らせました。
「標茶駅」に鉄道ファンであれば見逃さないであろう碑が残されていました。
標津線の列車が往来していた島式ホームがそのまま保存され、ホームの先端に標津線の起点駅であることを記した碑が今も残っているのです。
更に、碑の手前側には蒸機列車の運行開始を記念して建てられたと思われる「ふるさとの鐘」がありました。