北条義時(北条政子の弟・NHK鎌倉殿の13人の主人公)から代官として蝦夷の守護を命じられた津軽半島豪族・安東氏の下、小豪族たちが渡島半島南部に12館を築きました。
和人の横暴に耐えかねたアイヌたちは反乱を起こします。長録元年(1457)、アイヌ民族の東部首長コシャマインは同族を率いて蜂起し、和人の館を襲いつぎつぎに陥落させ、残るは茂辺地館と花沢館のみとなりました。翌年、上ノ国の花沢館主蛎崎季繁(かきざきすえしげ)方に逗留していた武田信広は、先陣として出陣し、反撃した挙げ句、ついにコシャマイン父子を七重浜に誘い出し打ち破りました。その鎮圧に功があった武田信広(後の松前藩始祖・上の写真)は季繁の養女を迎え蠣崎姓を名乗り、天の川の須崎に館を築き地位を固めました。アイヌ民族大蜂起は三回ありますがコシャマインが最初になります。
蛎崎季繁の死後、1470年(文明2年・応仁の後)頃に勝山館を築き、信広は生涯を終え長男の光広が跡を継ぎます。(松前藩の誕生は五代目になります)1513年(永正10年)、福山(現在の松前町)の大館がアイヌの攻撃で落城(北海道のむかし話・駒ヶ岳のいわれ参照)すると、翌年大館の守将であった相原李胤に代わる地位を安東氏に承認され、蛎崎一族は大館に移ることになりました。
史跡上之国館跡 勝山館跡(国指定史跡)
勝山館は、武田信広が15世紀後半に築いた山城で、16世紀末頃まで武田・蠣崎氏の日本海側での政治・軍事・交易の一大拠点でした。
昭和54年から発掘調査が始まり、現在も整備、復元工事が続いています。発掘調査により、中国産青磁・白磁・染付、国産の美濃焼、越前焼など約5万点の陶磁器や、金属製品、木製品など10万点余りの出土品や建物・井戸・空壕・橋などの跡が多数見つかりました。
日本海北方交易や中世の生活様式など、「北の中世」を語る重要な史跡として、日本史の教科書などにも紹介されています。
上国寺本堂(じょうこくじほんどう)
上国寺本堂は、国道228号線沿いにあります。勝山館の宗教世界を支えた北海道最古の寺院建築で、嘉吉3年(1443)に真言宗の僧、秀延が創立したと伝えられています。
本堂の内陣天井支輪に宝暦8年(1758)の墨書があり、細部の様式などからもこの頃の建立であると思われていますが、江戸の記録で永禄3年(1560)頃の建立とされ、室町時代に存在したお寺です。
当初は真言宗に属していましたが、江戸時代中期より浄土宗に改宗され現在に至っています。本堂は平成20~23年度にかけて、文化庁の国庫補助事業で半解体修理を行い、内陣が最も整備された明和6年(1769)の姿に復元されています。
大滝の古戦場(箱館戦争)
国道228号線の上ノ国の石崎と小砂子の間の大滝の沢に架かる大滝橋周辺で、明治元年(1868)11月14日に松前藩と旧幕府軍(土方隊)の間で行われた戦いがありました。松前藩兵の抵抗は激しく、土方歳三らは背後の山からこれを射撃することに成功し、土方たちが江差に到着したのは16日でした。
鉱石ブラックシリカ
旧江差線(平成26年5月廃線)は津軽海峡の木古内町から上ノ国町に抜ける山岳コースで江差まで約42kmありました。この江差線に沿って、道道5号線が通っています。
途中に「神明駅」というのがありました。これが一時、岩盤浴で人気となった鉱石ブラックシリカが採掘されたところです。
上ノ国町神明(しんめい)地区で天の川(あまのがわ)上流の山中から産出される黒色鉱物の採掘場所です。数億年の間、海底の珪藻類を堆積したものと推定され、多くの天然ミネラルを含み、遠赤外線(生育光線)、マイナスイオンを高レベルで大量に放射・発生する優れた特性をもちます。雪が降っても雪が積もらないことで、アイヌの人たちは不思議に思っていた場所でした。