観光客が行かない森町の旅
「森町」は、誰でもが「もりまち」と読みます。北海道に「町」は129か所ありますが、「ちょう」と読まないのは「森まち」だけです。

いつから「まち」と読むようになったのかと言えば、1987年(昭和62年)以前は混用しており、町幹部さえも「ちょう」「まち」と使っていました。それを小学校の社会科副読本で「ちょう」から「まち」に呼称を統一し、「広報もり」で町民に知らされました。それを北海道新聞が報じて全道に定着したという経緯があります。

「いかめし弁当」
森町がどこにあるのかを知らない人でも、「いかめし」を食べた人は多いと思います。今は列車の窓が開かないので「駅弁」が下火になりましたが、「いかめし」はスーパーの品ぞろえとして健在です。

「いかめし弁当」の歴史は古く、1941年(戦時中)は米不足のため噴火湾で豊漁だったスルメイカを用いて考案されました。考案したのは森駅の駅弁業者である阿部弁当店です。
1966年(昭和41年)に京王百貨店で『第1回元祖有名駅弁とうまいもの大会』が行われ、阿部弁当店は烏賊(いか)飯(めし)を出品。第2回目には早くも売り上げ1位となり、以後「駅弁大会」の常連となりました。このため、「いかめし」は森町名物、北海道名物として全国的に知られるようになりました。

森町の見どころ

森町・森駅

森町は函館まで車で40分ほどです。特に観光するような所もなく、宿泊するほどの町でもありません。しかし、どこの町にも言えますが歴史を調べてみると見どころがあるものです。

30年以上も前になりますが、森駅のバス停からお年寄りを温泉地まで乗せたことがあります。温泉地というのは濁川温泉でした。札幌方向に向かい、町はずれの石倉漁港から山道に入ると、深い森で覆われ、渓谷が突然開け田園風景が広がりました。濁川盆地で江戸時代に温泉が発見されたところです。メジャーな温泉地ではありませんが、宿が7軒あり地元の人たちのたまり場になっています。
ここには、北海道で唯一の地熱発電所(北海道電力)があります。蒸気や熱水を利用してタービンを回して発電し、6万世帯の使用量に相当するそうです。発電に使った後の熱水は温室の熱源となりトマトやきゅうりの生産に利用されています。

森桟橋跡

森桟橋跡 JR森駅です

明治5年に札幌から函館までの札幌本道が開削されます。この時に室蘭港から森間は海路となり、森桟橋に船がつけられました。この桟橋がどこにあったのかを知りたくて森駅の隣にあった商工会を訪れたことがあります。専務さんが窓を開けて乗り出して教えてくれました。
森駅の線路沿いに「森桟橋跡」の石碑が建てられています。この大事業を指揮したのは榎本武揚ですが、この桟橋工事に、日本で初めての防腐処理とて榎本が箱田戦争で上陸した時に鷲ノ木で原油があることを発見しており、その原油が使われました

榎本軍鷲ノ木上陸跡地 

鷲ノ木

国道5号で森町市街地に入る時に「湯の崎トンネル」があります。トンネルを出てすぐ「榎本軍鷲ノ木上陸跡地」の小さな表示看板があります。一瞬のことなので見過ごしてしまいそうです。「鷲の木史跡公園」になっており、駐車場もあります。

榎本武揚率いる艦隊が鷲ノ木浜に上陸。北西の風が強く、海は荒れ、積雪は30cmもありました。上陸時に海に転落したり舟に挟まったりして16名が事故死。
榎本艦隊は「回天」、「開陽」、「蟠龍」、「長鯨」、「神速」、「鳳凰」、「回春」、「大江」の8艦で榎本武揚、大鳥圭介、土方歳三、松平太郎、古屋佐久左衛門ら2000人以上を運んできました。榎本は幕末に箱館奉行所を訪れており、土地勘があり鷲ノ木を上陸地に選んだのは、何の防備もなく無血上陸が可能だという確信があったからです。また鷲ノ木には小さいながらも集落が形成されており(約80戸)、2000人以上もの兵を真冬の蝦夷地に露営させずに済むという計算もありました。ここから箱館戦争が始まりました。この集落も見ものです。

開道を行く15「北海道の諸道」の一節から (司馬遼太郎)
「明治戊辰(1868)の秋が深まる頃、「開陽」以下、旧幕艦隊数隻と有志の士「二千五百余人」をひきいた榎本武揚が、仙台藩領の浜を出て北上し、南部の宮古湾で最後の薪水を補充し、蝦夷地に新政府をつくるべく北上した。
箱館への入港を避けたのは、そのあたりに新政府の役人と多少の兵士がいたからで、渡島(おしま)国(くに)噴火(ふんか)湾(わん)をめざした。旗艦「開陽」が鷲の木(森町の西方)海岸に近づいたのは、十月十九日(旧暦)午後である。」

森町のはじまり
1532年に青森県津軽郡の権四郎という人物が漁夫10戸を率いて移住し、この村を開いたとされています。
茅野場所は箱館6ケ場所のうちの一つで、現在の砂原と森町の全域の範囲で、知行主は代々松前家臣北見家で請負人は角屋太郎吉右衛門と角屋右衛門でした。外国船の渡来により、幕府に北辺警備を命じられた南部藩は1856年(安政3年)室蘭陣屋の砂原分屯所を置き、明治元年に引き上げるまで常時30名が駐屯していました。
今は南部藩陣屋跡として国の指定史跡になっています。

渡島海岸鉄道(おしまかいがんてつどう)
砂原町(さわらちょう)は、森町の東隣にあった町で、2005年4月1日、森町と合併し新町名は森町となりました。
森町には、道の駅が「YOU・遊・もり」と「つど~る・プラザ・さわら」の二か所あります。砂原を回る国道278号も見所の多いところです。油絵で描いた駒ヶ岳(砂原岳)があります。

渡島海岸鉄道とは、森町から砂原村にかけての沿岸で漁獲される海産物と旅客の輸送を目的にした地方鉄道のことです。この地域の漁獲は四季を通して絶えることがありませんでした。しかし、交通の施設が乏しく漁獲は魚肥として出される有様でした。大正9年に全国初となる本格的な冷凍工場が操業したのは、交通問題があったからです。
大正14年、森町から佐原村間9.4キロの地方鉄道が出願され、渡島海岸鉄道㈱が設立されました。開通後には缶詰工場や魚油工場が多く建設されるなど、水産加工業が大いに発展しました。砂原漁港は今も健在で、ここは隠れ観光地です。
渡島海岸鉄道は国鉄に買収され、1945年1月25日に廃止となりました。
従って、森駅から駒ヶ岳を囲む二通りの路線があります。