歴史街道 (北の湘南・伊達市)
ニシン漁で賑わった江差(えさし)町や寿都(すっつ)町に「いにしえ街道」という商店街があります。国土交通省の北海道開発局が歴史的建造物や史跡・旧跡を残しながら、そこに住んでいる人が、それらと調和するように建物の修復や電柱の埋設を行い「歴史ある街並み」として観光に一翼を担っているものです。
1998年(平成10年)、伊達市に「歴史街道」が作られたと報道がありました。20年以上前のことですが、面白そうなので出かけたことがあります。このような街並みは北海道では初めての試みでした。伊達市役所の東側にある商店や銀行などを、城下町風に白壁と瓦(かわら)屋根(やね)で統一していました。
そうして、この景観にあわせて瓦屋根を模し黒色に塗られた郵便ポストが2基ありました。この黒いポストから手紙を出すことができるのですが、設置を郵政省が認めるまで4年の歳月を要したといいます。
観光客が行かない北の湘南伊達市の旅
伊達市は内浦湾に面し、比較的温暖な気候であるため「北の湘南」の異名を持ちます。寒冷な北海道にあって、内浦湾や洞爺湖といった自然に恵まれ温暖な町だからです。キンキ飯寿司、ホタテなどの海の幸も名産で、牧場では乳搾り、アイスクリームやバター作りなども体験できます。毎年8月には「伊達武者まつり」が開かれ、開拓の歴史を物語ります。
伊達市は仙台藩の亘理伊達家が、明治維新に家臣たちとともに集団で移住した町です。戊辰戦争で敗れ朝敵とされた伊達一門の領主たちは大幅に減封になります。亘理領は2万4千石から58石に削られ、領地は南部藩支配となり帰農すれば刀は持てません。1360戸、7800人の領民を食べさせていくことはとうてい無理。北海道の未開拓地を領地として与えるという、政府の提言に願い出るしか生きるすべがなく、しかも政府の支援は一切ありませんでした。
亘理領主伊達邦成は家老の提言を受け、北海道開拓の願いを太政官に提出。そうして与えられた土地が現在の有珠郡でした。
明治2年10月、家老田村顕允が先発し、その後邦成は陸路青森を経由し有珠に着き視察を行いました。第一陣の移住者220人は家を処分して資金にし、邦成も書画、茶器、家具や文房具、弓や銃、刀剣まで売却します。
有珠に到着して有珠郡支配所の開所式が開かれ、邦成からの直書が公布されます(邦成は同行しておりません)。アイヌ民族に対して、1、欺き偽り玩弄すべからざる事 1、みだりに出入り相難成事 邦成が先住者に対して心を砕いていたかがわかります。第二陣は到着が遅れたため開墾もできません。更に、この年は収穫も少なく、大根と薯だけの苦しい日々でした。
第三陣で伊達邦成は現地に赴くことにしました。その時、義母の貞操院保子も同行すると述べます。貞操院(1827―1904)は天璋院篤姫(1836―83)と同時代を生きた仙台藩最後の姫君です。これには人々は感激し移住者は700人に達しました。保子は粗末な家で起居し、家々を回って励まし、桃の節句には花嫁道具に持参した雛人形を飾り、甘酒を振舞ったといいます。江戸の大奥「篤姫」と良く比べられる姫です。
移住は、明治14年まで9回にわたり続き、合計2651人が移住。こうして新しい町、伊達市が誕生しました。
有珠善光寺
伊達市の隣町は洞爺湖町になります。2006年(平成18年)に虻田町と洞爺村が合併し洞爺湖町となりました。道内で最も短い国道37号で室蘭駅前から伊達市⇒旧虻田を抜ける時に旧国道があります。この道に入り内浦湾に出ると有珠善光寺があります。
長野の善光寺とは何の関係もありません。有珠善光寺の開基は、いかにも古い話で826年に比叡山の僧、慈覚大師が阿弥陀仏を安置した時とされています。しかし、1613年に松前藩の祖・松前慶広が有珠に至り祈祷所として如来堂を建てたことに始まります。(松前藩の始祖は武田信広です)
その後、蝦夷地に江戸幕府が介入してくる1804年に現在の伊達市・様似町・厚岸町に3つの寺を建てます。この「蝦夷三官寺」の一つに有珠の善光寺が当てられました。
有珠とは有珠山のことですが、大爆発の絶えない山で、善光寺境内に有珠山から飛んできた背丈より大きな石がいたる所にあり存在感を示しています。伊達(有珠)は蝦夷のころから知られた地域でした。
四季を通して、何度もでかけていますが境内には桜から始まりツツジや牡丹、アジサイが色鮮やかに咲き行くたびに新しい発見をさせてくれるお寺です。
本願寺街道
札幌から伊達市に行くには二通りの国道があります。一つは千歳から国道36号⇒東室蘭から37号のコース。もう一つは中山峠を通る国道230号で、昭和新山から国道453号に入るコースです。453号は国道230号の基礎になっている道路です。
このコースは松浦武四郎の助言を得て東本願寺の僧が開削した道内で最も古い幹線道路です。有珠の尾去別(現在の長和地区)を始点として有珠山、洞爺湖の東側を迂回して留寿都・喜茂別・定山渓・簾舞・そうして札幌市豊平区平岸が終点となる約103キロです。明治3年7月に伊達(有珠)の尾去別から起工し、翌4年10月に札幌の平岸天神山南麓まで1年3か月で完成しました。明治維新で地位が揺らいでいた京都東本願寺が建設に名乗りを上げ、大谷光瑩率いる僧は北上途中に寄付を集め、海を渡った士族・アイヌ民族を加えて突貫工事で開削したものです。(中山峠に大谷光瑩の像があります)
現在の国道453号は平岸⇒真駒内⇒支笏湖⇒大滝村⇒壮瞥町⇒昭和新山と通る国道で、山あり湖ありの絶景コースです。終点が37号の交差点となり、ここを右折すると有珠善光寺は近く善光寺の内浦湾を過ぎると旧虻田町で「道の駅あぶた」では名物のうに丼があります。ここからの内浦湾の眺めも絶景となります。
伊達市開拓記念館
伊逹市開拓記念館は、伊達家から市に寄付された多くの資料を展示するために、旧伊達氏邸宅跡の七千坪の敷地内に昭和33年に開設されたものです。
亘理伊達家の歴史は、仙台藩一門伊達実元、成実の親子を祖として始まります。伊達政宗のいとこにあたる成実は片倉小十郎とともに政宗を助け、仙台藩を築くのに活躍した人物で、仙台藩の重鎮で現在の宮城県亘理町一帯を所領していました。(テーマパークの登別伊達時代村は亘理藩伊達家のことです)
美術品や家宝の多くは開拓資金として売り払われましたが、次代に伝えるべき貴重な品は残され、1958年(昭和33年)に開拓記念館として開館し、現在に至っています。記念館を含む広い庭園には約60種もの樹木があり、四季折々の市民の憩いの場として、また観光名所として多くの人が訪れています。
庭園内には重要文化財「旧三戸部家住宅」「迎賓館」などがあるのですが、この迎賓館で配布されていた「伊達氏略系図」が気になり、その後津軽海峡を渡った伊達一族のことを調べることになりました。仙台藩と言われても伊達政宗しか知らない私でしたが、調べるうちに伊達一族が開拓に大きく貢献していることを知りました。
大滝村
大滝村は、2006年3月1日に伊達市へ編入され、伊達市の地域自治区「大滝区」となりまし た。壮瞥町を間に挟むため、飛地になっています。村名は、村の名所である三階滝に由来しています。札幌から国道432号を走ると、この大滝村を通って壮瞥町に入り昭和新山から伊達市の長和地区に到着となります。
トマムリゾートは当初「大滝村」に計画をしていました。交通の便が悪いため千歳からの石勝線に「トマム駅」を設置して開業という経緯があります。
明治10年代に発見された横山温泉。明治30年代から営業している北湯沢温泉・ホロホロ山(1,322m)・徳舜瞥山(1,309m)周辺は、支笏洞爺国立公園に指定されており、今は野口観光の「緑の風リゾートきたゆざわ」となっています。山の中でコンビニのセイコーマートが一軒ありますが、三階(さんかい)滝(たき)などの景勝地にも恵まれ自然美豊かな村です。
伊達の絵は、善光寺で2点、三階滝、有珠山3点、伊達漁港からと7点の油絵があります。