観光客が行かない「稚内市」の旅  
                         世帯数17,399 人口31,916人

流氷とけて 春風吹いて       
ハマナス咲いて カモメも啼いて  
遥か沖ゆく 外国船の      
煙もうれし 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬

ダ・カーポが『みんなのうた』で歌って昭和51年にヒット。宗谷岬に歌詞と楽譜を刻んだ『宗谷岬』の碑があります。

作詞吉田弘は稚内の歯科技工士で、船村徹が何度も宗谷岬を訪れ「その土地に住む人の思いが伝わるような歌詞が欲しい」ということで作られ、昭和47年、歌手は演歌黒木真理で発売しますがローカルヒットにとどまっていました。

稚内市発祥之地

稚内を「わっかない」と読める人は、北海道通か鉄道マニアでしょう。

稚内駅から宗谷岬に向かうと岬に入る手前右手に宗谷公園があります。稚内は古くから松前藩の管理下にあって宗谷場所(交易所)が開かれ栄えていました。
明治に入ると宗谷村には役場が置かれ,この地域の中心地となりますが,やがて大型の船舶を受け入れられる港を有する稚内に中心が移ります。宗谷公園の沢が稚内地名発祥の地となります。

稚内市大字稚内村字ヤムワッカナイと呼称していました。アイヌ語で「ヤムワッカナイ」とは「冷たい奇麗な水のある川」の意味で,稚内港を出る多くの船舶の飲料水として積み込み,又は地域住民の命の水として古くから大切にされてきました。
又,此の場所はアイヌ語で「シリクラエンルン」と呼ばれ「もののけの住む所」とも云われており、後に真言寺開創の伊藤智教法尼が堂宇を建て,弘法大師をお祀りして是を鎮めました。後に開基上人鮒井英應師は,この沢の滝を「いろはの滝」と称し賛嘆したといいます。

宮沢賢治詩碑
宗谷岬公園の一角に宮沢賢治文学碑があります。
大正12年(1923)8月、賢治が稚内より連絡船の客となり、大泊に至る間に作詞したものといわれています。

 

文学碑 碑文

はだれに暗く 緑する 宗谷岬の たゞずみと 北はま蒼に うち唾る 
サガレン島の 東尾や       (宗谷2)


間宮林蔵渡樺出港の地 ー 稚内市第2清浜地区


間宮林蔵の銅像は宗谷岬にあるので、宗谷岬から樺太に渡ったと思いていましたが違いました。

宗谷岬から稚内の市街地方面に向かって3キロほど走った、第2清浜地区の海岸線に「出港の地碑」が建てられています。(左の写真)

宗谷岬に立っている間宮林蔵立像は、昭和43年に出港の地碑を建てたときに、この場所から宗谷岬に移設したといいます。
因みに、蝦夷地を一日で一番距離を歩いたのは林蔵で、一日80キロを歩きました。。それも銅像を良く見ると鎖で作られた測量器具を持っています。北海道地図が完成したのは伊能忠敬が亡くなった後、伊能から測量を学んでいた間宮でした。休む時も立ったままだといいます。松浦武四郎は半分の40キロです。間宮林蔵の小説はいろいろありますが、吉村昭の「間宮林蔵」から出港の場面を紹介します。

 

林蔵はこの地で樺太体験を持つ最上徳内に教えを乞い、伝十郎ともども準備に取りかかった。出発の日の海はおだやかで空は晴れていた。浜には会所の深山宇平太、津軽藩兵の指揮格である山崎半蔵たちが見送りに来ていた。
林蔵は山崎に「成功せぬうちは、帰ってくることはいたしませぬ。もしも、失敗に終わった場合には、樺太に残り、その地の土になるか、それともアイヌとして生涯を終えます。再びお眼にかかれるとは思いませぬ。お達者でお暮し下さい」と低い声で言った。林蔵29歳、伝十郎40歳。(間宮林蔵・吉村昭より)


森繁久彌歌碑ー稚内市抜海村
     

 浜茄子(ハマナス)の 
咲きみだれたる サロベツの

砂丘の涯の 海に立つ富士

稚内から道道106号(稚内天塩線/日本海オロロンライン)沿いの浜勇知園地(稚内市抜海村)に浜(はま)勇(ゆう)知(ち)展望休憩施設「こうほねの家」があります。国道40号ではありません。
この施設の横に歌碑があります。コウホネ沼の周囲はハマナスやエゾカンゾウが咲く浜勇知原生花園で利尻富士が見事です。私が行ったときには写生会が行われていました。
昭和52年に三浦綾子の「天北原野」をドラマにした時に森繁がナレーションを担当した縁で建てられたと思います。