JR札幌駅からJR白老駅まで約1時間。
車で高速道路を使わなければ2時間。昨年の7月に車で訪れた時に白老駅前に行ってみました。
小さな町の駅ですが、タクシーが列をなして停まっており、駅前広場では工事が広範囲で始まっていました。
今年の4月24日にOPENする「民族共生象徴空間」ウポポイまでは、タクシーで10分もかかりません。歩いてでも行ける距離ですから、新型コロナウィルス問題がなければ、駅から歩く人の列ができていたでしょう。
観光客が当分行けない白老町の旅
10年以上前になりますが、JRの旅企画で白老がありました。何があるのかと調べてみたことがあります。
海外の観光客が「ポロコトタン」を訪ねていました。年間20万人ほどで、台湾の人たちが多いと話していました。
日本人は学校の社会科学習で訪れるくらいですから、観光となると稀なことです。
このアイヌ民族博物館は財団法人で、アイヌの文化遺産を保存し公開するために作られた施設です。
白老市街にあったアイヌ集落が手狭なので、1965年に「ポロト湖畔」に移設し野外博物館となりました。
5軒のチセ(茅葺きの家)や博物館、植物園、飼育舎などを再現し、白老で伝承するアイヌ舞踊をチセの中で公演を行っていました。(ポロトとはアイヌ語で大きな沼の意)
ウポポイ 民族共生象徴空間 (2020・4・24オープン予定)
ウポポイとは(おおぜいで)歌うことの意 以前のポロコトタンは建物の左側を進んだところが入り口
独立行政法人国立博物館は文化庁所管で、日本には東京・京都・奈良・九州国立博物館と4館ありますが、それに加えて東京以北では初めての国立アイヌ民族博物館の誕生となります。
これまでの財団法人と何が違うのかといえば、規模が大きくなるのと「慰霊の施設」をポロト湖東に整備されることです。(これにはアイヌの人たちで異論を唱える人もおります)
道内のアイヌ資料館は22カ所
1669年の蝦夷地勢力
アイヌ文化の形成は14-15世紀以降ころからは、北方民族よりは南方の和人との接触が強くなりました。
世界地図を見ても少数民族は、どちらに傾いてもおかしくない歴史があります。
北海道という大地が北方民族に傾いていたら日本の国土は下北半島が最北の地で、今の北海道はロシア領だったでしょう。
現在の新ひだか町(旧静内町)の「シャクシャイン蜂起」が起きたのは1669年でした。
この時代のアイヌ支配圏は大きくは5つのグループに分けられていたといいます。アイヌ同士でも勢力争いがありました(遠軽町の願望岩がその象徴)。江戸幕府でいえば四代将軍家綱のころです。
シャクシャインのグループはメナシクルといって静内から道東厚岸を含む大勢力でした。元々シャクシャインは十勝出身のアイヌ人です。
このメナシクルと静内川の漁猟圏で対立するシュムクルグループは、オニビシを総首長として新冠以北日高地方・夕張から南の石狩低地帯でした。
内浦アイヌグループはアイコウインを中心とし内浦湾、国縫(長万部)から尻岸内(旧恵山町)の間の勢力。
石狩アイヌはハウカセ総首長として石狩川流域を中心に増毛の勢力(拠点としていたのは現在の浦臼)。
余市アイヌは総首長八郎右衛門で天塩、宗谷、利尻山の勢力。
松前藩の和人地のエリアは、日本海は熊石(現在の八雲町熊石)、津軽海峡は箱館の東石崎(戸井の手前)まででした。
アイヌ民族の資料館は北海道に22カ所あります。
上記のように5つの勢力がありましたから、地元でアイヌ関連を収集すると、各町にある郷土資料館と同じで地元の資料や道具などを提出するので違いがでてきます。アイヌ民族といっても一括りにはできません。
アイヌの人たちは千島列島系の太平洋側と樺太から渡って来た日本海側と別れています。このことを知っていると資料館の見方も変わってきます。
今回オープンする「ウポポイ」は、地域アイヌ民族を、どれくらい網羅しているかは興味深いところです。
道内にあるアイヌ資料館の中でポイントとなるいくつかを紹介します。
平取町立二風谷アイヌ文化博物館 (平取町)
22カ所ある資料館の中で、膨大な量を保存しているのは平取町立二風谷アイヌ文化博物館です。
これは萱野茂氏が集めていたものです。衣服や道具につけられる文様(もんよう)は、地域によって違いがあると解説があります。私たちにはどれも同じように見えるのですが、グループや集落で分けられていたといいます。
従って、アイヌの人たちには「文様」をみれば「どこの者」かが分かっていたということです。
新ひだか町のアイヌ民族資料館 (新ひだか町)
アイヌの英傑シャクシャインの砦があった場所で、静内市街地を一望できます。
毎年9月23日にはシャクシャイン法要祭が行われます。資料館の前庭が「野草園」になっておりアイヌの人たちにとって野山の植物は衣食住の大半をまかなうものでした。独特の伝統文化の中核を成すものです。
網走市立郷土資料館 (網走市)
他では中々見ることができない衣装が展示されています。中国から伝わってきた「山丹服」ないし「蝦夷錦」と言われる華麗な刺繍の施された清朝の官服です。山丹(さんたん)とはアムール川下流域のことで、山丹人は、清朝に貂皮を上納する代わりに下賜された官服や青玉などを持参し、アイヌは猟で得た毛皮や、和人よりもたらされた鉄製品、米、酒等と交換していました。
初代松前藩主となる松前慶広は家康と席巻の時に、これを着て遭うのですが家康は大変気に入り、慶広は服を脱ぎ家康に贈呈したといいます。
サッポロピリカコタン (札幌南区の小金湯)
大きな施設ではありませんが、アイヌ民族の歴史や文化を知るには十分の資料館です。この施設が出来たので、札幌や近郊の児童たちは白老や平取まで行かなくても、社会学習ができるようになりました。舞台のある講堂があるので、アイヌの人たちが楽器ムックリや古式舞踊などを披露しています。入り口には「真弓の木」が植えてあり、アイヌの武器である弓を引いている風景を見たことがあります。また、アイヌ関連の図書も揃えているので研究をする人のためにも利用できます。
川村カ子ト(かねと) アイヌ記念館 (旭川市)
明治20年代まで、旭川アイヌは現在の永山に集落がありました。旭川を軍都の町として第七師団設立に向けて、屯田兵村を永山に作るにあたり現在の近文に移動させます。アイヌの村長を務めていたのが7代目イタキシロマでした。長男で8代目となる川村カ子トが大正5年に資財で「アイヌ記念館」を建てました。
それが今なお保存されているのですから奇跡といえます。金田一京助と知里幸恵が出会った場所がそのまま残されています。チセ(茅葺きの家)は、資料館の顔ともいえるのでどこも再現されています。しかし、ここにあるのは一世紀前のまま保存されています。
ここで知里幸惠の「アイヌ神謡集」が作られました。また、アイヌの「木彫の熊」が誕生した場所でもあります。その当時の資料や写真が生々しく展示されているので圧倒されます。近年はアイヌのことがテレビでも紹介されますが、旭川といえば川村カ子トの孫9代目川村兼一氏が登場します。