大正6年、大和に引っ越した年
10町歩の畑に、じゃがいも6町歩、豆2町歩、1町歩6反に麦・きび・えんばく・かぼちゃ・大根をまき、残りに野菜を植えた。
第一次大戦は短期に終結すると予想されたが、すでに4年を超えていた。
大正7年(1918)1月に入って、それぞれ戦争の目的や平和に関する14原則を発表した。これは建前だった。
大正8年(1919)1月、講和条約がパリで開かれ、6月になってベルサイユ宮殿で調印された。開拓民の人たちは、この戦争の終結で、「豆景気」「でんぷん景気」は間もなく冷えて、農産物の低価格がくるだろうと予想せざるをえなかった。
景気後退
大正8年から始まった好況の退潮期にほとんど軒並み農家は将棋倒しでやられた。相場が一箱25円位の高値から3円50銭位まで下ったのである。
検一を買わされていたものは(売り手はほとんど犬伏氏)次々と値下りのたびに差し金(保証金をふやす)を増し、気がついた時にはもう手遅れという状態、その裏で犬伏氏は適当の時期に倉庫の委託品は売り払い、下がれば下がるほど儲かるという勘定で、土地から家屋敷まで手放すもの続出。
この期間で犬伏氏は士別、美深など検一の盛んな地方で、1000町以上の土地を買入れ、道北では一・二の大地主、昔の貴族院議員の選挙権を得るほどの素封家となった。
木材大国
産業は大正の澱粉景気から木材産業へと移行していき、広大な官有林から毎年数万石の木材が切り出されて行った。
山中で切られた丸太はふもとまで馬搬し、第一次貯木場に送られ、さらに馬で各木工場では桟橋を組み、次々と積み上げ貯木していった。
士別地方の木材資源は、処分に困るほど豊富だった。開拓時代から大正末期まで士別の木材として全道の都市に販売された。陸路が不便なため川の水を利用し、上流から下流に一気に流送していた。御料地の奥から天塩川の剣淵川と合流する地点で陸上げされた。
大正8年、十津川の長兄が亡くなり14年ぶりの里帰りとなった。
4か月の十津川滞在で、大正9年(1920)3月下旬に大和新団体へ帰ってきた。戦争景気のおこぼれは無くなっていた。
戦争景気の去ったあとの不景気は、開拓農家にとって深刻に考えなければならない厳しさであった。
秋に収穫ができるまでの食料は残してあるが、肥料、農薬、農機具などは借金で仕入れるのである。
豆・いも・でんぷんなどは、戦争景気以前よりもまだ低くなってしまったが、肥料、農薬、農機具などは、それに比例して下がらないのだ。ところが、このころ耳寄りな話が入ってきた。