1853年(嘉永6年)曹洞宗の僧侶で美泉定山(岡山県出身)が、江差や瀬棚そして小樽の張碓と布教活動を繰り広げていました。
この時にアイヌ人に温泉のことを聞いたのが始まりでした。
開拓使二代目判官であった岩村通俊に働きかけ「湯守り」を命じられたことから湯治場として発展していきます。
定山渓温泉には出かけても、美泉定山の像や定山の立てた定山寺に立ち寄る人は稀です。しかし、これらは今も残っております。
この絵を描いたのは、湯元である鹿の湯温泉を過ぎて左折すると定山渓二見公園があります。この公園を下りて赤い二見吊り橋方面を描いたものです。ここには全盛期当時の定山渓があります。