米町公園の展望台

米町(よねまち)公園は釧路発祥の地、米町地区の高台にあります。米町地区は幣舞橋(ぬさまいばし)を渡ると右手に南大通りが見え、海に向かい下りて行くと住宅街が続き、その突き当たりになります。
今来た道を見上げると釧路駅前とは違った別世界に入ったようです。南大通りを「啄木通り」と呼んでたくさんの啄木の碑が立てられており、行きついた所の米町公園を上がると、釧路港を見下ろす展望台があります。整理された公園には、啄木歌碑の中では一番古い碑が生誕50周年を記念して1934年に建立されたといいます。

 しらしらと氷かがやき 千鳥啼 (な) く  釧路の海の冬の月かな

釧路に行かれる方は、この南大通りを歩くか車窓でも良いのでゆっくり通過してみてください。釧路が好きになるでしょう。

観光客が行かない釧路巡り

釧路観光といえば「和商市場」「幣舞橋」「湿原のノロッコ列車」くらいで終わってしまいます。

しかし、これでは来たかいがありません。旅行会社は限られた時間の中で、誰でもが「見たい・食べたい・経験してみたい」と思っている所を案内しているだけです。折角、釧路湿原を楽しみに来てもこれでは感動も薄いでしょう。もう少し、釧路巡りをしてみましょう

釧路の町のはじまり                     

帯広から国道38号で釧路市に入ると「鳥取神社」(明治24年創祀)があります。釧路の町はここが始まりで鳥取藩の人たちが鍬を入れました。いまでもこの地区には鳥取という地名が残っています。ところが、それ以前に釧路の海に注目した人がおります。北海道初代判官の島義勇です。彼は佐賀藩士で札幌の都市開発に関わり「北海道開拓の父」と呼ばれる人です。明治維新の混乱期で開拓長官とぶつかり三か月あまりで更迭にあいます。彼は幕末時に藩の使命で蝦夷地を回っており釧路に注目していました。判官に赴任すると佐賀藩士を釧路に向かわせ調査をさせています。残念ながら更迭され中途半端で終わりましたが、後の釧路にとって貴重な資料になったといわれています。
(歴史を知りたい人はここからがスタートです)

釧路駅と石川啄木

鉄道は明治34年に釧路から隣の白糠までが開通し初代の釧路駅が開業します。この場所は今よりも幣舞橋寄りで、現在釧路市交流プラザが建っている地点です。(交差点の角に記念碑があります)

現在の釧路駅は二代目で大正6年に移転しました。石川啄木が釧路駅に下り立ったのは1908 (明治41) 年1月21日の夜でしたから初代駅です。22歳の時で「さいはての駅に下り立ち雪あかり さびしき町に あゆみ入りにき」という歌を残しています。

旧釧路新聞の編集長として76日間滞在し、紙面上で時事評論、随筆、詩、論文、短歌と相当な数の作品を残しています。この当時のことを知ると釧路の町巡りは大きく変わってきます。

現在の釧路駅を下りると出口は一カ所で、駅前から直線で幣舞橋まで約1キロあります。この道路のことを北大通といいます。啄木の時代は幣舞橋の近くに駅がありましたから、橋を渡り旧釧路新聞社まで歩いていけました。(幣舞橋を渡り右に行くと観光名所の港文館があります。これは旧釧路新聞社の社屋を復元し啄木資料館として開放されているものです)

幣舞橋を渡ると南大通に入ります。明治から昭和初期の釧路らしいところが残っているのは「南大通」にあります。この通りを現在は「啄木通り」と呼び啄木の歌碑が24基建てられています。旧釧路新聞社跡、啄木下宿跡、料亭跡などゆかりの史跡も点在しています。彼の才能を一気に花開かせた地が釧路であることはだれも否定できないことですが、啄木の碑も多く自治体別でみると盛岡市が70基とダントツで多いのですが、2位が何と釧路の27基、3位は岩手県西根町の8基です。やはり釧路の観光に啄木は外せないところです。

【石川啄木離釧の地】 碑の中でも変わったもので「離釧の地」というのがあります。1908 (明治41) 年4月5日に、東京へ向けて釧路を出航した場所で、民家の敷地内に建てられていました。今はその面影はありませんがかつては砂浜でした。啄木が酒田川丸に向かう筏に乗り込んだのはこのあたりという場所に碑が建っています。

釧路湿原について

釧路湿原を見ようと釧路駅から「ノロッコ号」に乗ったことがあります。釧路駅~塘路駅(5駅)迄を車窓で楽しんで折り返す湿原の旅なのですが、列車目線で見る湿原なので感動は薄いものです。それでも釧路川に沿って走るため湿原に入っていく感覚を味わうことはできます。

釧路湿原は高台から見下ろさなければ、その凄みはわかりません。それを見ることができる場所は一カ所しかありません。観光パンフには数カ所出ているのですが、期待を裏切るものばかりです。

そもそも釧路湿原といわれるエリアは、釧路市・釧路町・標茶町・鶴居村の4自治体にあり山手線内の広さがあります。4000年の大昔には海だったところで、湿原を縫うように流れている川は釧路川で水源地は屈斜路湖になります。屈斜路湖の右手に摩周湖があり「霧の摩周湖」と歌われたのは、釧路川の河口(釧路市)から流れる霧が湿原一帯に沿って北上していったものです。

細岡展望台

広大な湿原を高台から見下ろすことができるのは標茶町にある「細岡展望台」です。蛇行する釧路川、湿原の背景には雌・雄阿寒岳や天気が良ければ斜里岳も見えるでしょう。テレビで映し出される風景はここです。この場所は釧路駅から3つ目の釧路湿原駅で下車して歩くか車で行くことです。私が行った時に、ちょうど釧路市の湿原展望台を見てきた人と出会いました。岡山からオートバイで回っている中年の男性曰く。「こちらはお金も取られず素晴らしい」「これからどちらへ」「今日は標茶で泊まります」と、またオートバイにまたがって走って行きました。

鶴居村から

鶴居村の役場を訪れた時に「ふるさと情報館・みなくる」を紹介してくれました。釧路湿原を上から眺めるのも感動モノでしたが、湿原がどのような状態になっているのかを見せてくれるのです。この小さな村で、ここまで手の込んだ展示をしたものだと、そのことに感動しました。湿原地帯には研究者や維持管理する人しか入れませんから、実際どのようになっているか知る由もありません。その実態が見れるのです。

また、鶴居村は内陸の山岳地帯にあるのですが「キラコタン岬と宮島岬」と名の付く場所があります。これは岬だったところで、ここまでが海だったことを証明するものでした。