観光客が行かない北檜山町の旅 

幌を国道230号で中山峠を越え、ルスツ~豊浦~長万部(国縫)から内陸に入り、今金町を過ぎると旧北檜山(ひやま)町に到着します。渡島半島を横断する道路で終点は瀬棚町になります。
この国縫(くんぬい)~瀬棚間には地方鉄道が通っていました。昭和7年に完成し48.4キロ、一日4往復、所要時間は2時間10分でした。国縫川と利別川の両流域に沿う国縫~種川間は、特に本流の屈曲が激しく、線路は山峡の敷設でしたが地質がもろく、度々崩壊事故を起こして死傷者を出したといいます。現場各所にタコ部屋が作られ、作業員が酷使され命を落としたことで知られています。1987年(昭和62年)3月16日に鉄路は廃止されました。

今金町(荻野吟子)~北檜山町

今金町の市街地を抜け、キリスト教徒が開拓した神丘地区を過ぎると北檜山町に入ります。この神丘地区はキリスト教徒リーダーの妻が、瀬棚で産科・小児科を開業する日本女性医師第一号の荻野吟子です。
北檜山に入ると、「丹羽」の地区名がやたらと目に付きます。「丹羽」「西丹羽」「東丹羽」「丹羽橋」などなど。

この町は丹羽五郎が開拓に入った地区で、彼の銅像があることを思いだしました。町役場に行けば、その場所を聞けると思い役場を探しました。道がY字の交差点で、右に行くと瀬棚町、左が大成区。この交差点に「ひやま町役場」の案内板がありました。
平成17年、北檜山町・瀬棚町・大成町の3町が合併し「せたな町」になり、北檜山町はせたな町の合併特例区となりましたが、本庁舎は旧北檜山町役場に置かれています。

ひやま町役場

役場のカウンターで「丹羽五郎の銅像はどこにありますか」と聞くと、若い職員が分厚い本を持ってきました。よほど嬉しかったようで、ニコニコ笑顔で「私は丹羽の出身なのです」と言って、丹羽五郎に関する地図を書いて説明してくれました。銅像だけでなく他の史跡なども書き込んでくれたのです。お陰で、瀬棚に行く前に大きな寄り道となりました。やっぱり「町役場」は最高の観光ガイドになります。

丹羽五郎

丹羽(にわ)は会津藩重臣丹羽家の分家の子として生まれ、本家に男子がいなかったため10歳で養子として後を継ぎ、一躍1000石の主となります。
15歳の時、明治維新で会津戦争が起こり、丹羽家も五郎の父は自決、いとこは白虎隊として自決。五郎は東京で捕虜生活を送り、18歳で幽閉が解かれますが、東京で学問を続け、一家の主として警察の巡査という道を選びました。研究熱心な五郎は、いろいろな方法を発案し、なかでも「戸口索引原簿」は、画期的なものとして賞賛。また警察官のための教科書なども出版。こうした功績から30歳の時には警部に昇進。明治20年、35歳で、ついに警察署長を命じられます。薩摩藩士が多い中で異例の出世でした。

五郎の夢

このころ北海道は開拓ブームが巻き起こっており、警視庁では出世をしましたが、1000石の家禄と比較すれば微々たるもの。
人生の大きな挽回のチャンス、それが北海道への夢でした。

明治23年、夏休みを利用して北海道に渡り、開拓長官永山武四郎と会い「旭川方面は交通の便が悪く、資金も多くかかりそうなので瀬棚辺りはどうか」と勧められ、利別原野(今の北檜山町)の調査に入りました。
東京に帰ると、開拓使に利別原野180万坪の貸付を願い出、その許可は翌年の明治24年におります。
北海道開拓が上司の怒りに触れ「現職の警察署長が、このような事業に手を染めるとは」。しかし、18年間勤めた警察官に別れを告げ明治24年依願免官となりました。
丹羽は旧会津藩領であった猪苗代千里村の住民12戸と北海道に渡り開墾を決意。移住者の旅費と半年間の生活費は五郎の準備資金から支給され、明治25年3月、49人の移住民を連れ瀬棚町を目指します。この時五郎は39歳でした。

役場の地図案内

荷卸しの松

地図には来た道を戻る形で書かれており、最初の史跡案内は「荷下ろしの松」でした。
先ほど通った所で、気をつけて見ていると、それらしき松がありました。しかし、この一帯は建物があるわけではなく、道と林ばかりですから聞かなければ分かるものではありません。
五郎一行が利別原野に到着すると、一面は雪に覆われており、山の中に大きな松があり、ひとまずこの松を目指して進み、ここに荷をおろしました。後に、この松は「荷卸しの松」と呼ばれ、今も丹羽村発祥の地として町のシンボルになっています。
石碑もあり、常に清掃されているようでした。いずれにしても誰かが毎日掃除をしなければ、すぐに雑草だらけになるでしょう。

玉川小学校跡

玉川小学校閉口記念碑

次に目指したのは、更に国道を戻り、道から外れて小高い丘に向かいました。見えてきたのは玉川公園です。
公園の手前に「玉川小学校」の跡地があり、校門入口に初代校長の銅像があります。五郎が最初に着手したのが学校でした。玉川小学校閉校記念碑もあります。
五郎は小学校、青年学校、新聞閲覧所、郵便局を設立し、大正2年には、開拓農地1000余町、276戸1380余人入植の功績を認められ藍綬褒章を受章しています。

 

玉川公園(玉川神社・丹羽五郎銅像)

玉川神社

丹羽村の将来のため「丹羽村基本財団」を設立。目的は、公共事業の経営とされ、学校教育、神社・公園の経営、道路の開削、図書館の設立、身寄りのない者や貧しい者の救助、老人の介護など、今日の行政のほとんどが含まれていました。最後まで会津藩士の誇りと望郷の念を抱きながら、昭和3年、76歳の生涯を終えました。
丹羽村開村70年の年に北檜山町「水仙の里」玉川公園に丹羽五郎の銅像が建てられました。