平成30年北海道胆振東部地震

震源地が厚真町(あつま)と聞いた時に、厚真町がどこにあるのかを知る人は少ないと思います。 

朝の天気予報で「胆振(いぶり)地方は晴れ」とする地域は室蘭市をいいます。胆振のエリアは西が豊浦町から東はむかわ町まで140キロ、面積は埼玉県ほどあります。北海道は179の市町村があるので厚真町を知らなくても恥にはならないでしょう。室蘭市は西側に位置するので、最東端の鵡川(むかわ)町は日高地方の天気予報を参考にしなければなりません。

厚真町は苫小牧東部に隣接した人口5千人弱の町で、札幌から車で1時間半、新千歳空港からは30分とアクセスは抜群ですが、知る人は少なくトラックの運転手とサーファーくらいです。

厚真町は太平洋から内陸に向けて3つのエリアに分かれており、夕張山地から流れる厚真川の流域がそのまま町域となり南北の縦長になっています。

北部は山岳部ですが640mが最高峰の低山が連なっており高山はありません。厚真ダム貯水池があり山腹崩落でダムの水路が埋まり、降雨が溜まれば決壊の恐れがあると言われています。

大規模な土砂崩れが起きた吉野地区は、町役場のある中央部市街地から5キロ弱、車で7分の地点です。中央部は農地として開拓され農業や商業、交通、行政の中心地になっています。町がこのように歪になったのは理由があります。南部は苫小牧から続く勇払原野が残り雄大な太平洋が広がる海浜域で、苫小牧港東港の東側は砂浜が広がるサーファーの溜まり場になっています。

南部は 国家プロジェクトの不毛地帯

「苫東(とまとう)」という単語を今回の地震で久しぶりに聞きました。苫東を知る人は団塊世代から上の人たちではないかと思います。厚真町の市街地が臨界地からほど遠い所にあるのはこの苫東のためです。

「苫東開発計画」が持ち上がったのは1960年代後半(高度経済成長の末期)のことで、苫小牧市東部に広がる1万2千ヘクタールの大地に3本の掘り込み式人造港、鉄鋼、石油精製、アルミ精製などを誘致し世界にも類を見ない巨大コンビナート建設を北海道開発庁が推し進めました。

最も重要な臨海部は弁天と呼ばれる地域で戦後に開拓民が入った地域です。樽前山の火山灰土地質の上、泥炭であったため排水溝を掘り客土して開墾しました。そんな中、ようやく酪農に光明が見えはじめた矢先の苫東計画でした。強引な用地買収を繰り広げ、借金を抱え苦しんでいた農民たちは苦渋の選択に迫られました。その結果、日高本線勇払駅と浜厚真駅の間の弁天地区を含む10キロ四方は無人の原野が広がってしまいました。浜厚真の前浜漁場は有数のホッキ・ホタテ漁場で、漁港はなく前浜に引き上げる方法でした。

突然、苫東港工事用船溜まりが1976年8月の着工からわずか数ヶ月で完成し、漁民は浜から4キロも離れた上厚真に出来た漁民団地へ、海を捨てる人も出ました。ところが、苫東計画は強引にすすめましたが全体の1割程度しか売れません。しかも、売れたのは千歳空港近くばかり。

二風谷ダム

むかわ町の隣町、平取町の二風谷ダムは「苫東への工業用水供給」を目的に計画され、ダムでせき止めた沙流川の水を地下トンネルで鵡川まで導き、これを利用するという計画でした。元参議院議員の萱野茂氏(アイヌ民族初議員)は地権者として二風谷ダム訴訟を起こしたことで知られています。
苫東計画の失敗が見え隠れするようになると、工業用水から「洪水対策」に目的を変えます。沙流川流域では過去洪水に見舞われたことがないと言われると、「発電」をするとし1986年「多目的ダム」の名目で地権者の訴えを完全に無視する形で強引に着工します。

その結果、毎年夏にチプサンケ(舟おろし祭)が催されていたアイヌ民族の聖地が水没し、ダムの完成とともに何故か流域では洪水が多発するようになりました。(土砂がダムの底を埋めるためです)

清田区里塚(さとづか)地区

震源地である厚真町から札幌まで約60キロあります。最も被害の大きかった里塚地区は北広島市との境にあり、千歳から車で来ると札幌市の入口にあたります。北広島市側には三井アウトレットや大型ショッピングモールがあり、道央高速ICがアウトレットに直行します。札幌側の入口には、世界最大の倉庫型ディスカウント・コストコがあります。このコストコの並びに三里塚神社があり、里塚(さとづか)という地名は三里塚から付けられたものです。

明治初期、開拓使がケプロンを招いて北海道開拓の指導を仰いだ時に、最初に提案があったのが函館と札幌を結ぶ街道を作ることでした。黒田清隆は開拓予算の一割を割いて明治6年に開通します。現在の国道36号で世に言われる室蘭街道です。

二里塚から三里塚の4キロ区間が最も通行が困難な場所でした。この地区に入植した人が書いた記録書を読んでみると、ここから先に開拓で入った人たちは「炭焼き小屋」を作り「炭を札幌の町まで運ぶのは至難の業で、雨が降るとぬかるみで身動きがとれなかった。冬は吹雪くと峠は前が見えなくなった。このぬかるみのひどい峠の工事を請け負った人夫が何人も亡くなったのでお寺が建てられ、そのお寺は今もある」。山あり谷あり、更に道は沢に沿いながら曲がりくねり、今回陥没のひどかった里塚付近が沢の底になります。

弾丸道路

戦後GHQが真駒内に入り再建が本格化した時に、空港のある千歳までを初のアスファルト道路にしました。昭和28年に完成するのですが、二里塚から三里塚の間を直線道路に開削したのです。曲がりくねった旧道は「あしりべつ桜並木通り」と石碑が建てられ、春には桜並木の通りになっています。

昭和47年、政令指定都市となった札幌は新興住宅の開発に乗り出します。この時に、今回被害の大きかった里塚地区の埋め立てを行いました。現国道36号から坂を下り旧国道に向けた斜面を埋め住宅地にしたのです。

昨年建てたばかりの住宅が傾き危険の赤紙が張られておりました。これからローンの支払いが続くのかと思えば気の毒です。陥没の調査に3か月はかかり工事着工は来年3月以降ということです。札幌市の責任もあり、来春の市長選も控えているので秋元市長の対応が問われることになるでしょう。