鎌倉 兼助

明治11年1月11日~昭和43年11月13日、91歳で没

松前サクラの慈父

北海道の桜の名所といえば、道南の松前町が挙がるでしょう。
日本最北の城下町に咲く桜は、お城を背景として良く似合います。
「早咲き」「中咲き」「遅咲き」と 250 種類もの桜が植えられており、1 ヵ月以上にわたって桜を楽しむことができます。
この桜は、江戸の松前藩時代から咲いていたものと思っていましたが、違いました。蝦夷時代にも桜はありましたが、それは数える程度で「松前の桜」は明治に入って29歳の男が接ぎ木を続けて育てたものでした。

生い立ち

鎌倉家は山形県柏倉村(現山形市内)で、当主が治肋を名乗る大工棟梁を業とする家でした。鎌倉家16代治肋、母チカの長男として兼助は明治11年1月11日、福山川原町(松前町字福山)に生まれました。
兼助の祖父は1850年から始まった松前城の工事を大工として手掛けるために松前に来ました。父も明治8年に松前に来て大工を続け、母は豆腐屋を営んでいました。
幼少のころ旧藩士和田瑳門の私塾に通い、のちに松城学校に移って教員志望者らと机を並べ、同校を卒業。
この頃の松前はニシン魚の最盛期でした。ニシンの発祥地は松前で、北前船による海運が盛んになるに従い松前藩の人口も増え、最盛期には10万人以上の漁師を数えていました。

明治36年、松前郡農会技術員となり、農業の指導に当り、明治41年福山町(松前町)書記となります。29歳でした。
この頃になると、ニシン漁は不漁続きで松前の経済は崩れ落ちていました。生活に困った町民は次々と町を離れるなど人口も激減。町民たちは毎日のように争いが絶えませんでした。

現在の函館公園

兼助は、この年の春、函館に出張し函館公園のサクラを見物しました。
公園は爛漫のサクラで押すな、押すなの人出で、三味線、太鼓のにぎわいに強く心を打たれます。
当時の松前には寺社境内や旧家の庭先などに若干のサクラがありましたが、肝心の松前城下には全くありませんでした。
町民がせめて一年一度は公園に集まって団らんすることによって、町は必ず平和になる、と兼助は信じ、生涯を通じて松前のサクラを育てる決心をしました。

しかし、桜のことなど知る由もありません。そこで、北大の農学部で果物の木の接ぎ木の仕組みを見学させてもらいました。
大正期に入り手始めに、東京から100本の染井吉野の苗木を自分のお金で取り寄せ、それに町内で枯れかけた木の枝を探してきて接ぎ木をしてみました。
熟練者でも5割くらいの確立と言われていましたが、八割方成功したのに自信を得て、次々に接ぎ木を続けます。
ところが、最初の吉野桜は、数年が経つと台の木と接いだ木が合わなかったのか、根本から腐り始めました。

そのような時に、全国の桜の絵を描いている画家が松前の桜を写生のために来ていると聞き訪ね「桜で、寒さにも強い木を知りませんか」。
すると「富士山の中腹に咲いている桜があります」と教えてくれました。
富士山の案内人をしているという人物に連絡を取り、苗木を送ってもらいました。これが多くの桜の土台となる木、台木となり、松前の桜が増えていくもととなりました。

光善寺(血脈桜)桜

町役場の職員だった鎌倉は、公園の一角にある光善寺の「血脈桜」と呼ばれる古木の枝をソメイヨシノの台木に接ぎ木し、桜を増やしていきます。
しかし、桜の苗を育てるための畑の確保、肥料、更に植樹する土地。特に、植樹する土地のほとんどが、クマザサの茂みの中で、これを開墾しなければならず、さらに植えた樹木への支柱など難題がありました。ただ、一人で黙々と接ぎ木を行っていました。

初めは役場の書記でしたが、植樹を本格的に始めてからは、町助役一期、収入役四期を務める多忙ぶりでした。その多忙ななかでも朝四時には起き、人の寝静まっているうちに肥おけを担いで役場の便所から人ぷんを運んで肥料にし、勤務後は午後八時ころまで畑に出ることを日課としていました。

昭和に入ると兼助の技術も円熟し、梁井吉野、関山(遅咲紅八重)、普賢像(遅咲八重)などの接ぎ木も次々にこなしました。戦時中は中断していたものの、終戦から数年後、活動を再開。

明治40年から大正を経て、昭和初期まで、実に30年以上の年月を費やしました。29歳の若者だった兼助も、いつの間にか60歳を超えていました。
ニシンが衰退し、再生を諦めて町を離れていくなかで、彼だけが復活を信じて役場の補助も受けずに、30年という気の遠くなる長い年月を、こつこつと頑張ってきたのです。その生涯に接ぎ木したサクラは一万本以上に達しました。

サクラと町民を愛した兼助は、その功が認められ、昭和34年藍綬褒章、昭和40年松前町名誉町民、同年11月には勲六等旭日単光章を賜り、翌年の41年には、松前城の入り口に鎌倉兼助の姿が刻まれて石碑が建立されました。
石碑が建立された2年後の昭和43年に兼助は亡くなりました。