永山武四郎

天保8年4月24日 – 明治37年5月27日 

鹿児島市生まれ

「屯田兵の父」と言われ、陸軍軍人。
第二代目の北海道長官、第七師団長

二人の武四郎

北海道に多大な貢献をした人物に二人の武四郎がおります。
一人は北海道命名の松浦武四郎ですが、もう一人が永山武四郎です。
永山は軍人であったため松浦ほど知られていません。
ところが、永山は35歳で来道してから亡くなる68歳までの33年間を北海道に住まいを構え、37の屯田兵村すべてに陣頭指揮を執った人です。多くの官人は東京で命令を出していたことを考えれば、今日北海道が日本国であるのは永山武四郎の功績が大きいといえるでしょう。

生い立ち

薩摩藩の下級藩士の四男として生まれます。
剣術と槍術を学び32歳で戊辰の役に参戦、新政府軍の一人として会津の攻略に加わりました。会津若松城では、砦に立て籠もる敵軍を破り、先陣をきって城下に攻め込み、その名をとどろかせます。

新政府の重臣には、同年輩、あるいは年下の若者も多くおりました。同じ薩摩出身の長老格、西郷隆盛は武四郎の9歳年上、後の開拓使長官となる黒田清隆は3歳下、2代目の札幌判官となる岩村通俊も3歳年下、伊藤博文は4歳年下でした。
武四郎は根っからの軍人魂を貫き、彼らのような派手な動きはせずに、年下の上司たちをたてながら、与えられた職務にひたすら忠実でした。

明治2年、蝦夷は北海道となりましたがロシア南下の勢いが強まります。
新政府内では近代的な戦力である陸軍兵制についてイギリス式とフランス式の2派で対立がおこりました。薩摩藩はイギリス式訓練、多数意見でフランス式が採用されます。
武四郎は職を辞する決意をします。政府は軍法会議長の職を与え穏便にしようとしますが受けようとしません。しかし、北方の防備を説いていた武四郎は、心機一転生涯の地を北海道と定め、その開発と防備にあたろうと決心します。

明治5年、開拓使の陸軍大尉を命じられます。
翌年、37歳の武四郎は開拓使長官黒田清隆に「北海道に屯田兵を置くべき」と述べました。一般人が普段は農耕、ある時は銃をとるというこの方法は、幕末からも実施しましたが難しいと考えられていました。
それは、胆振(白老・苫小牧)や釧路地方に入植した人々が厳しい自然を前に、次々と失敗したからです(八王子同心など)。しかし、兵隊を連れて軍備のためだけに北海道に駐留させることは事実上不可能でした。
武四郎は幕府が倒れて職を無くした武士たちが大勢おり、彼らを救うためにも私にお預けくださいと政府に申し入れます。

屯田兵条例

琴似神社

明治7年、屯田兵条例が制定され武四郎は屯田事務局に配置されます。
明治8年、札幌の琴似兵村に宮城、青森、秋田の東北三県から965人が、翌年は札幌の山鼻と発寒、江別、新琴似、篠路に移住大隊が編成されました。
武四郎は、兵村を回って開拓が順調に進むよう励まして歩きます。ところが、明治10年、武四郎にとって最悪の苦境に追い込まれる事態がおとずれます。

西南戦争

鹿児島で西南戦争が起こり、屯田兵とともに出陣せよとの命が下りました。
西郷隆盛が旧薩摩藩士を中心に蜂起した戦争で、永山も黒田も薩摩出身で同じ薩摩を討たねばなりません。
永山は屯田兵第一大隊を率いて出陣。
しかし屯田兵の下部組織はほとんどが東北出身、しかも朝敵にされた会津藩の人たちでした。永山は私心を捨て熊本・宮崎などを転戦し抜群の働きをみせ西郷軍を鎮圧します。

屯田事務局長就任

戦争の功労者として陸軍中佐に昇格し屯田事務局長に就任。
「北辺の守りを固め、北海道を強くする」これは西郷隆盛の遺志でもありました。そして、就任するとアメリカ、清国、ロシアにおもむき、各国の移民兵制を調査し、屯田兵村作りに本腰を入れたのです。

札幌の永山武四郎邸

札幌中央区(サッポロファクトリーに隣接)に現存する永山邸は、永山が屯田事務局長時代に私費で建てたものです。開拓使から北海道庁に至るころで、高官で札幌に住居を持ったのは永山だけです。

明治15年に開拓使が廃止になり、三県時代(札幌・函館・根室)を経て北海道庁が誕生(明治19年)します。
明治18年、武四郎は初代北海道長官となる岩村通俊とともに、現在の旭川神居古潭を越え、近文台(今の旭川嵐山)に登ります。

ここから上川の平原をながめ、岩村に「海岸地帯は目処がつきました。これからは内陸部の開発が急務。ここを開発して屯田兵の大兵団を置くことは、国防上からも重要です」これが、旭川第七師団設立への最初の提言でした。

永山は明治22年、初代長官・岩村通俊の後を受けて二代北海道長官に就任します。これは屯田兵本部長との兼任で、兵制と民政とを握る特殊な立場になりました。53歳、北海道の土を踏んでから15年の歳月が流れていました。

旭川屯田兵の旗

今まで旧士族に限られていた屯田兵の募集を中止し、一般人からも採用することとし次第に農業開発への人材途用へ切り替えていきます。この「平民屯田」の始めが、上川で実現します。
旭川の永山屯田は明治天皇に謁見し、北辺の警備と開発状態を説明し、上川の重要性を述べた時、天皇は「この地はおまえが力を尽くす村だから、永山と名づけるがいい」と言われて命名したのです。

永山はその後、日清戦争に出征し、明治29年第七師団司令部が札幌の月寒に置かれると、陸軍中将、師団長に昇進します。この間も屯田兵村は作り続けられ、最後の士別、剣淵への入植が明治32年。この25年間に設置された兵村は37に達します。すべての兵村に、永山武四郎は携わったことになります。

永山は明治35年に退職し、貴族院議員になります。貴族院の会議で東京にいた時、病に臥せてしまいます。それを聞いた天皇は永山の功績を讃えて従二位を贈ります。永山は危篤で床に臥せていましたが、身を起こしてそれを押し頂き、そして倒れると昏睡状態に陥り、そのまま息を引き取りました。
68歳でした。遺族は遺言に従い、遺体は軍服を着せて札幌に運ばれ豊平墓地に埋葬されました。(その後、里塚霊園に改葬)永山は死んでもなお北海道を守るという決意を遺言に残していたのです。

戦前、功績を讃えて永山武四郎の軍服姿の像が大通公園に立てられていましたが、戦争の鉄不足のため供出され、その後再建の話は出ず、後年になって旭川の常磐公園に外套をまとった姿で建立されました。ところが平成12年になって永山神社境内に、大通公園の軍服姿よりも小さな像が出来ました。