有島武郎 ありしまたけお

明治11年3月4日―大正12年6月9日

有島武郎の「生まれ出づる悩み」の冒頭の部分に「私の借りた家は札幌の町外れを流れる豊平川の右岸にあった」と書かれています。

その跡地(白石区菊水1-1)には案内板があります。
有島が32歳、明治43年5月から翌年の夏まで住んだ家で、長男の森雅之が生まれました。
弟の有島生馬や武者小路実篤、そうして「生まれ出づる悩み」の主人公となる木田金次郎も訪ねた場所です。
北海道文学館(中島公園内)が有島旧居を保存する運動を決議し、昭和54年に北海道開拓の村に復元されました。
写真の表札「有島」はここに掲げられているものです。

昭和61年7月にオープンした札幌芸術の森には、有島が札幌で最後に住んだ家が移築されています。札幌農科大学教授時代の大正2年8月に、自ら構想を練った建物で北区12条西3にありました。この家で三男が生まれて親子五人で永住のつもりでしたが実質1年4ヶ月で、妻安子の病気のため東京に転じます。

明治・大正の北海道に生きる人間を鮮明に描き出した有島は、狩太(現・ニセコ)での無償農場解放をはじめ、「遠友夜学校」、北大美術団体「黒百合会」での活動など、文学だけに止まりませんでした。
北海道出身の作家や画家は、その後誕生しますが有島武郎の影響を受けた人は多かったと思います。岩内の画家「木田金次郎」も紹介しますので、合わせて読んでいただければと思います。

生まれ

一房の葡萄

明治11年、東京小石川(現・文京区)に旧薩摩藩郷士で大蔵官僚・実業家有島武の長男として生まれました。
画家で作家の有島生馬は4歳下、作家の里見弴は10歳下の弟です。
武郎4歳の時、父の横浜税関長就任を機に横浜に移ります。父の教育方針により米国人家庭で生活。その後、横浜英和学校(現横浜英和学院)に通います。
このころの体験が後の童話『一房の葡萄』となりました。

小学4年から東京に戻り、学習院に転じて寄宿生活を送ることになります。
几帳面な性格で、礼儀正しく、成績も優秀だったため、当時の皇太子(後の大正天皇)の学友に選ばれたりもしたが、次第に絵画や文学、歴史に興味を持つようになります。ところが、そうした考えを親に反対され農業家を目指すようになります。
明治29年、札幌農学校に入学。教授をしていた新渡戸稲造は母方の親戚でした。父親は官吏を辞し、実業界に入り北海道の虻田郡狩太村(現在、ニセコ町)に広大な土地を入手し、開墾事業に取り掛かかります。
これは農業に進もうとする有島家長男への父親としての計らいでもありました。

1901年(明治34)札幌農学校卒業すると軍隊生活を送り、その後渡米。
ハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、さらにヨーロッパにも渡ります。
1904年、日露戦争が始まると事態に憂慮し、信仰に深い懐疑を抱くようになり、やがて、アナーキズムに共鳴するようになっていきました。
1907年(明治40)に帰国すると、予備見習士官として3ヵ月間、軍務に服しますが、この時期に自身が結婚を望んだ女性を父に反対されて苦しみます。

その後、東北帝国大学農科大学となっていた母校に迎えられることになり、1908年には札幌へ移住。ほどなくして予科の教授となり英語のほかに倫理講話も担当。この講話は毎回、学生が廊下に溢れるほどの人気を博したといいます。

また、『イプセン雑感』を発表し、小説『半日』(1909年)を執筆するなど、文学者としても堵につきはじめました。
一方、キリスト教は捨てたも同然であったのに、札幌独立教会の日曜学校の校長に迎えられ、新渡戸稲造によって創設された遠友夜学校の代表をも引き受けることになります。このことで、有島は矛盾に苦しむことになります。

1909年(明治42)に結婚しますが11歳とし下の妻との生活は、精神上の矛盾をますます大きなものとなりました。
1910年、ついにキリスト教を棄て、弟の里見弴や武者小路実篤らによって創刊された「白樺」に同人として参加。
『或る女のグリンプス』(1911~13)を連載し、『かんかん虫』(1906)『お末の死』(1914)などを発表。

1916年(大正5)、妻と父を相次いで失い、これを契機に本格的に文学に打ち込むむようになります。
『カインの末裔』(1917)、『生れ出づる悩み』(1918)、『迷路』(1918)などを発表。一躍文壇の人気作家となります。
1919年には、「白樺」に連載しながら中断していた『或る女のグリンプス』を改稿して代表作となった『或る女』を完成。
さらに、1920年には5年以上の歳月をかけて自己存在をめぐって思索した『惜みなく愛は奪ふ』を発表。彼の文学の頂点といもいうべき仕事が完成します。

しかしその後、創作力に衰えを見せるようになり、長編『星座』(1922)は中絶。そして、1922年『宣言一つ』を発表して、北海道狩太村の有島農場を小作人に無償で解放し、当時の社会に大きな反響を呼びました。

この頃から人妻で婦人公論の記者、波多野秋子に恋愛感情を抱くようになっていました。(有島は妻・安子と死別後は再婚せず独身を通していた)。
しかし、秋子の夫春房に知られるところとなり、脅迫を受けて苦しむことになります。
1923年(大正12)6月8日夕刻、行き先も告げずに家を出た有島武郎は、新橋駅で秋子と待ち合わせ、軽井沢へ向かいます。翌9日未明、2人は愛宕山の別荘・浄月庵の応接間で縊死しました。遺体が発見されたのは7月7日でした。
梅雨の時期に1ヶ月遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認されたといいます。複数残されていた遺書の一つには、「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」と残されていました。