納谷幸喜

1940年(昭和15年)5月29日 – 2013年(平成25年)1月19日)

出生地は樺太敷香郡敷香町。
現在のロシア極東連邦管区サハリン州ポロナイスク市出身。
第48代横綱。本名は(なや こうき)。

 

生い立ち

昭和15年、樺太の敷香町で生まれ。
母は納谷キヨ。北海道の神恵内村から女一人で身を立てるため樺太に渡りました。父はウクライナ人のコサック騎兵隊将校ポリシコ・マリキュンで、ロシア革命後に樺太へ亡命。その三男として生まれます。当時、敷香町は日本領の南樺太に位置するため、大鵬は外国出身横綱になりません。

幸喜が幼いころ、父は軍隊に行っていたため父の名も、顔も知らずに育ちます。
そして、昭和20年8月、終戦と同時にソ連軍が突然樺太に侵入してきました。
多くの日本人が、樺太を離れるため港に殺到。母親のキヨ、17歳の兄幸治に手を引かれて逃げてきた幸喜は5歳でした。

大鵬上陸の地(稚内)

港に家族を探しに来た父は、家族と出会うことはできませんでした。この時、船が出る時に、母と兄は父の最後の姿をギリギリで見ることができました。
小樽に向かう船でしたが、母が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船しました。奇しくもこの船は留萌沖でソ連の潜水艦に魚雷攻撃を受けて沈没してしまいます。(三船殉難事件)

一家は母の故郷・神恵内村に落ち着いたものの、大変な貧しさを強いられました。夫の消息を案じながら、子供のためと小学校教師と再婚。
毎年のように僻地の学校を転々とする義父、それに付き添う母と子。幸喜も納豆売りなとをして家計を助け、義父の厳しい躾で心休まる暇もありませんでした。

道内各地を転居した末、幸喜が11歳の時、一家は弟子屈町川湯に転居。
翌年、母は子供たちの学業を考えて定住の道を選び離婚しました。
兄の勧めで、中学卒業後は、営林署で働きながら弟子屈高校定時制で学びます。その頃、営林署の休憩時間によく相撲を取っていたことが話題になり、それが川湯に住んでいた元力士、紅葉山の耳に入ります。二所ノ関部屋出身の紅葉山は、ケガで相撲界を引退する時に、有望な少年がいたら紹介すると親方に約束していました。それから6年が経ち、見出されたのが16歳の納谷幸喜でした。

1956年(昭和31年)に二所ノ関一行が訓子府町へ巡業に来た時に紹介され、高校を中途退学して入門。入門時に母親から反対されましたが、親子で相撲部屋を見学した時に所属力士の礼儀正しさを見た叔父が母親を説得。後年、巡業で振る舞われたちゃんこに感銘を受けていたことも入門の動機として明らかになっています。

初土俵から三役へ

入門から2か月後(昭和31年9月)、幸喜は「納谷」のしこ名で初土俵を踏みました。全国から集めた60数名の新弟子のなかで、次第に頭角を現していきます。
それでも、このやせっぽちの少年が、新入幕わずか一年で歴代最年少の横綱昇進を果たすなど、この時はまだ誰も思いませんでした。

ある日、親方は新弟子の稽古を担当している十両の滝見山を呼び出し、「納谷を絶対に一人前にしなきゃいかん」。
この日から滝見山が親方に代わって、幸喜をはじめ3人の弟弟子に胸を貸すことになります。特訓は凄惨を極めました。これでもかと引きずり回され、苦しさのあまり倒れると、バケツの水をかけられ、また土俵に上げられるのです。他の兄弟子から「もういい加減にやめさせろ」そんな声が上がるほどでした。
実際、他の二人はすぐに根を上げ、部屋を去っていきました。絶対にまいったとは言わない幸喜に、滝見山はひそかに期待していました。

今や滝見山への憎しみだけが、幸喜を奮い立たせていました。若い幸喜が、滝見山の苦悩と真意を理解するのはまだまだ先のことでした。
鬼軍曹のしごきのおかげで、番付も順調に上がっていったある日、幸喜は親方にさらなるノルマを課せられます。
「一日に四股500回、鉄砲5千回。お前の日課だ」これだけの日課を仲間と同じ稽古時間では、できるはずがありません。誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで稽古に打ち込むようになりました。
幸喜は体格に恵まれていましたが、決して天才肌ではなく、一番の武器は素直さでした。命じられたことを出来るまで黙々とやる努力が、一歩一歩、階段を上らせていったのです。

ある日、幸喜は親方の部屋の前で意外な声を聞きました。
臥薪嘗胆がしんしょうたん、臥薪嘗胆・・・・」親方が念仏のように唱えていたのでした。それは成功のために苦労に耐えるという意味を持つ中国の故事でした。自分にどれほどの期待がかけられているのかに気づいたのです。

昭和34年5月、十両に昇進。いよいよ関取で四股名「納谷」から「大鵬」となります。親方は、「四股名を『大鵬』だ。中国の古典から取った名で、ひとっ飛びに何万里も飛ぶ鳥だという。お前にこそ、この四股名はふさわしい」この四股名は、漢書に明るい親方が一年も前から密かに温めていた名前でした。

かくして、新十両に期待の新星、大鵬が誕生。
身長186センチ、体重93キロ。その番付が発表されるや否や、ある力士が二所ノ関部屋の稽古場に出稽古にやってきました。
柏戸でした。大鵬より2歳年上、飛ぶ鳥を落とす勢いで大活躍中の柏戸は、先場所でも13勝をあげ、敢闘、技能の両賞をもらったばかりでした。雲の上の存在の柏戸が突然目の前に立っているのです。
「一番、お相手いただけるかな、大鵬関」この光景に、周囲はの力士はざわめきました。これが、のちに「柏鵬時代」を築く柏戸との初顔合わせでした。
相撲になりませんでした。その日から柏戸に勝つことが、大鵬の力士人生としての目標となりました。

大鵬は十両4場所目に13勝2敗で優勝、翌昭和35年初場所には新入幕を果たします。目標の柏戸は小結に昇進していました。
初日から11連勝で注目を集める大鵬。迎えた12日目は、連勝ストップの使命を受けて立ちはだかったのは柏戸でした。
取り組みが始まった次の瞬間、大鵬は下手投げで柏戸に完敗。破竹の11連勝を柏戸に止められたものの、結果は12勝3敗で初の敢闘賞。
次の日から稽古場を独り占めして猛特訓を開始。その後の躍進ぶりはすさまじく、新入幕ながら年間最多勝を挙げ、11月場所には念願の初優勝を飾ります。
そうして、入幕してわずか11ヵ月で大関昇進。
この時、全国に「大鵬ブーム」が起こりました。高度成長の日本に一人の国民的ヒーローを生み出したのです。

そうして、昭和30年代後半から40年代前半にかけて、大鵬と柏戸はともに良きライバルとして相撲の黄金時代を築き、昭和の大横綱へと成長していきます。

昭和36年秋場所、大鵬と柏戸はともに横綱に推挙されました。大鵬は柏戸より2年若い21歳4ヵ月の史上最年少横綱。また、新入幕からわずか1年で横綱昇進を果たした初の力士として、一躍国民的ヒーローとなりました。
大鵬の故郷、弟子屈町川湯では、英雄・納谷幸喜の育った町を一目見ようと、報道関係者をはじめ多くの観光客が訪れることとなりました。

大鵬は横綱に昇進した場所の千秋楽、横綱同士の一番で柏戸を破り優勝。翌昭和37年も優勝して4連覇を達成し、破竹の勢いで相撲界を独走していました。
柏戸をはじめとして全力士が大鵬から白星を奪うことに血眼となり、土俵の上は異様な熱気に包まれ、取る側も観る側も白熱し、テレビの視聴率はうなぎのぼり、時代はまさに大相撲黄金時代へと突入したのです。

ところが、大鵬には人知れず悩みがありました。
一般社会だけでなく、相撲界の中でも「大鵬ばかりが優勝して面白くない」という批判の声が上がっているとことでした。
「強すぎればつまらない」は、いつの世も同じで強すぎる横綱の悩みです。
それでも勝ち続けるしか道はなく、昭和38年夏場所には、史上初の6連覇を自己初の全勝優勝で成し遂げました。
翌昭和39年、2場所連続戦勝優勝を果たし、優勝回数は13に達し戦前の大横綱双葉山の優勝記録を更新しました。
大鵬の強さは何といっても、相手次第で取り口を変える柔軟性でした。身長187センチ、体重153キロで柔らかさを活かして相手の出方によってスタイルを自由自在に変え、万全の体勢に持ち込んでから勝負に出るという堅実な取り口は「負けない相撲」と賞されました。

しかし、双葉山の69連勝を意識して迎えた昭和39年夏場所、4日目にして連勝記録は34でストップ。その敗戦の影響からか、横綱昇進以来最低の10勝5敗の成績に終わりました。更に、翌場所は途中休場となり、一気に世の中は大鵬バッシングへと変わりました。
親方に座禅でも組んで心を洗って来い、と言われ禅寺へ山籠もりしました。
毎朝4時に起床し、食事はかゆと漬物のみ、続いて寺の掃除、そして静かに身を修める修身の鍛錬。力士になって以来、初めてともいえる穏やかな日々を過ごしました。寺にこもって5日目でした。和尚は「稀に見る見事な修行ぶり。もうあなたはここにいる必要はないようです。帰って皆さんと稽古してください」

気持ちを新たに挑んだ翌秋場所、優勝。
その翌場所も優勝し、完全復帰し品格を取り戻しました。
大鵬と柏戸の両横綱が互いに勝敗を分け合い、「柏鵬時代」が形成されていくなか、大鵬だけは一部の評論家から盛んに批判を受けました。
それは、「手堅いゆえに派手さがない。こうなったら負けないという横綱相撲の型がない」というものでした。
これに対して、最も身近で稽古を見てきた親方は「相撲を指導する立場から言わせてもらえば、型を持っている者は、その型になれば絶対という反面、その型になれないと不安があります。その点、大鵬は型にはまらずどんな相撲でも取れる。型の上をいく、自然体で取れるのが、大鵬の強みなんです。まさに『名人に型なし』です」これで、評論家たちの批判を黙らせ、迷いが生じていた大鵬をしっかりと支えました。

横綱になって6年目の昭和42年、2度目の6連覇という快挙を成し遂げますが、その後は左肘のケガに苦しみ、8ヵ月に及ぶ長期休業となりました。
栃ノ海や佐田の山など、大鵬より後に横綱になった関取が次々と辞めていく中で、ケガを治して一刻も早く再起しなければと、昭和43年秋場所。
しかし、まちもや初日から黒星スタートとなりました。もはやこれまでかと誰もが思いました。しかし、翌日から千秋楽まで全勝し、27回目の優勝を勝ち取りました。

ここから、不死鳥のように蘇り、次々と連勝優勝を決めていきました。
昭和44年初場所で8度目の全勝優勝を達成し、双葉山の記録に並ぶと、世間は双葉山の69連勝と比較するのは無理もありません。国民の期待はいおがおうなしに高まりました。
そして、45連勝で臨んだ春場所2日目。相手は初組み合わせとなる、若手の戸田でした。きわどい取り組みとなり、行司差し違いで戸田の勝ち。
ところが、この一番をスローカメラで見たところ、戸田の右足が明らかに土俵の外に踏み出していることがわかりました。当時は、VTRが判定に使われていません。大鵬の負けは覆ることはありませんでした。連勝の記録は敗れましたが。この誤審を機に、VTR判定が取り入れられるようになりました。

翌年昭和45年、横綱在位500勝。柏戸を寄り切って30回目の優勝。一方、ライバル柏戸はこの年の7月に引退。
その後も優勝を重ねた大鵬ですが、昭和46年夏場所5日目、貴ノ花に寄り切られ、31歳にして引退を決意しました。
32回の優勝、2度の6連覇、8回の全勝優勝、双葉山の69連勝に次ぐ45連勝という金字塔を打ち立てました。

引退をした大鵬は、大鵬部屋を興し関脇・巨砲ら14名の関取を育てました。
また、慈善活動にも熱心に取り組み「大鵬慈善浴衣」や「手ぬぐい」の売り上げ金と自らの寄付をもとに、老人ホームへテレビを贈ったり、日本赤十字社に血液運搬車「大鵬号」を毎年贈り続けました。