Ranald MacDonaldらなるど まくどなるど 

ラナルド・マクドナルド
 1824年2月3日 – 1894年8月5日

カナダ生まれのメティ人
(西洋人とインディアンの混血児) 
船員、冒険家。オレゴンから来た。

 

 

NHKのドラマで1月に全4話で放映された「わげもん=通訳者」がありました。鎖国の江戸時代に長崎の出島に出入りしオランダとの交易を通訳として支えてきたオランダ通詞(つうじ)たちはプロフェッショナル集団でした。このドラマの中で、マクドナルド(木村昴)や森山栄之助(小池徹平)などが登場していました。当時通詞はすべて世襲でなりたっていました。

ペリー来航の5年前になる嘉永元年(1848年)6月、アメリカの捕鯨船から小船で蝦夷の焼尻島に漂流者を装って密入国した青年がおりました。
不法入国者として長崎に護送、抑留されます。約10か月間、日本に滞在し長崎で日本人通詞たちに英語学習をおこないます。
オランダ通詞森山栄之助は本物の英会話を学び、その後に来航したペリー一行の外交団首席通訳をつとめました。マクドナルドは日本初の英語教師となります。マクドナルドが上陸した焼尻島と利尻島の地点、および幽閉地の長崎市上西山町と生誕地のフォート・アストリアに「マクドナルド記念碑」があります。

 

「捕鯨船を離れたマクドナルドはボートで憧れの日本に向かった。前方の島影(天売島)が浮かび上がってきたが、靄は相変わらず濃い。
島の西端をまわると、北方に島(焼尻島)が見えた。
突然、異様な音が海上にひびき渡った。トドの群からのがれるように岬をまわると、ゆるく湾曲した砂地の海岸がみえた。ようやくボートをつけられる場所を見出したかれは、帆をおろして岸におり立つとボートを浜に引きあげた。日本の地に立ったのだと思うと、胸が熱くなった」

無人島とおもい込んだ彼はやがて利尻島に向かいます。今度は人影が見え漂流を装うためにボートを沈め手を振りました。島人に援けられて上陸を果たします。そうして、自分を名乗る場面が実に面白く読みました。

「・・・そして、名は、それをたしかめるのが先だと思います。茂吉は、慎重だった。「しかし、それをどのようにして知ることができる」善次郎は、茂吉の言葉に反撥するように言った。
茂吉は、口をつぐんだ。思案するように眉をひそめていたが、男に顔をむけると、自分の胸を指さし、
「茂吉」と言った。
そして、善次郎についで丹五郎を指さしてそれぞれの名を口にし、男に指をむけ、「名前は?」と、問うた。

男は、真剣な眼をし、ふたたび名を告げる茂吉の言葉につづけて、モキチ、ゼンジロウ、タンゴロと妙な訛りで言い、名前は、という問いに、にわかに眼をかがやかせ、「ナメ? ネイム?」と、甲高い声をあげた。
かれは自分の胸を親指で突くと、
「ラナルド・マクドナルド」と、叫ぶように言った。」

 

生い立ち

マクドナルド上陸記念トーテンポール

英領カナダ時代のオレゴンにあるハドソン湾会社の毛皮商だったスコットランド人(国籍はイギリス)のアーチボルド・マクドナルドと、当地の原住民であるインディアン「チヌーク族」の部族長の娘コアルゾアの間にイギリス市民として生まれました。
母親の父と父親は、採掘業で協力関係にあり土地所有者である原住民の有力者と婚姻関係になることは植民地開拓時代にはしばしばみられました。母親はラナルド出産後数か月で死亡し、ラナルドは母方の叔母に一時預けられますが、父親が翌年再婚したため再び引き取られました。
エジンバラ大学卒の父親から基礎教育を受けたのち、ミッション系のレッドリバー・アカデミーに入り、4年間学んだあと、父の手配で銀行員の見習いになります。しかし、肌が有色であるため差別にあい会社勤めは肌に合わず出奔します。

子供の頃、インディアンの親戚にルーツは日本人だと教えられ憧れがありました。日本行きを企て捕鯨船の船員となり、仲間から日本の情報を得ます。
日本を神秘の国と称し、多量の金銀を産出し、ヨーロッパでただ一国貿易を許されているオランダは、雑貨その他の代償に銀を得て裕福な国とまで言われるようになった。容貌が日本人と似ていたことから日本語を学びたかったこと、日本に行けば、自分 のような多少の教育のある人間なら、それなりの地位が得られるだろうとも考えていました。

鎖国日本へ潜入したインディアン

利尻島・マクドナルド上陸記念碑

ハワイで日本近海へ行く捕鯨船に乗り込み、蝦夷地で船長に頼んでボートを下ろしてもらいました。時は1848年6月27日。場所は北海道西沖でした。

利尻島に上陸するつもりで漕ぎ出しますが上陸したのは焼尻島。着いたのは無人の浜で、2日間滞在し再びボートを漕ぎ出し利尻島を目指します。
そして沿岸でわざと転覆させて漂流を偽装。幸いアイヌ人に発見され舟で救助されます。

こうして「潜入」に成功しましたが、番所に突き出され、利尻島から宗谷へ送られ取り調べを受けます。その後松前に送られ、さらに長崎へ移送されました。
当時の外国人窓口は長崎だけで、その間、言葉が通じないため苦労したものの日本語習得に努めます。結局、長崎の牢屋暮らしとなるのですが、オランダ通詞森山栄之助の目に止まりました。

「マクドナルドが何かを書きしるした紙を大切に持っていて、夕方、部屋が暗くなった時、その紙に視線を落としてから、「アンドン」と、口にしました。番人は、反射的に格子の外におかれた行燈に灯を入れ、座敷牢の中に明かりが流れるようにしました。
その紙に、行燈という日本語が書いてあるのかも知れないと思いました。
森山は、ペーパーを見たいと英語で言いうと、森山に差し出します。紙には横文字が並んでおりMouthを見つけました。森山は英語も学習していたので口を意味するアメリカ語であることを知っていました。その右にある横文字を低い声で読んだ彼は短い叫びに似た声をもらした。そこには「Quich」と書かれていたのです。」

日本初の英語教師となる

弘化4年(1847)7月、アメリカ捕鯨船「ローレンス号」が長崎を訪れました。
ところが、かれらの口にする英語を誰一人として理解できず、オランダ商館長、レフィソンの通詞にたよる以外にありませんでした。通詞たちは必死になってレフィソンから英語を学ぼうとしますが、森山栄之助がわずかな単語を知っていただけで、森山ですら身振り手振りで辛うじて意思の伝達を行うだけでした。幕府は日本近海を訪れる英語圏の言葉を理解できる通詞養成が急務でした。

やがてマクドナルドが日本文化に関心を持ち、聞き覚えた日本語を使うなど多少学問もあることを知った長崎奉行は、オランダ語通詞14名を彼につけて英語を学ばせることにしました。
マクドナルドは英語の教師となり牢屋で格子を挟んで塾を開いたわけです。
毎日午後2時から夕方まで開きます。まず身の回りの単語からスペルと発音からでした。森山はこれまで聞いた発音とはまるで違うものでした。
マクドナルドは段々熱を帯びて懸命に発音を繰り返したといいます。そして特別な待遇を受けて通詞との交流を持ちました。

帰国

1849年4月19日、アメリカ船プレブル号が長崎に入港して、漂流民の引き渡しを求め、マクドナルドのほか15人(こちらがメイン)が日本を去ることになりました。
日本から帰国したのち、活躍の場を求めてインドやオーストラリアで働き、アフリカ、ヨーロッパへも航海しました。父親が亡くなったあと、1853年に地元に帰り、兄弟らとビジネスを始めます。
晩年はオールド・フォート・コルヴィル(現・米国ワシントン州)のインディアン居留地で暮らし、姪に看取られ亡くなりました。

死の間際の最後の言葉は、「さようなら my dear さようなら」であったといいます。
「SAYONARA」の文字は、マクドナルドの墓碑にも文の一部として刻まれ、フェリー郡のインディアン墓地に埋葬されています。