アメリカ合衆国の軍人、政治家。
黒田清隆に熱望され、アメリカから招かれて北海道の開拓にアメリカ農業を導入したお雇い外国人の1人。
生い立ち
1804年(文化元年・徳川11代の家斉時代)、マサチューセッツ州の医師セス・ケプロンの四男として生まれ、この年ニューヨーク州に移り、オナイダ郡ホワイツボロで育ちました。
1825年、21歳の時にワルデンに移住。父及び長兄(ニュートン・マン)が経営する綿布製造業に従事し、経験を積んだ後、各地の工場で監督を務めます。
1833年、ボルチモア・ワシントン鉄道敷設の際、アイルランド労働者が暴動が起きた時にケプロンは州の命令を受け、200人の民軍を組織し、2000人を鎮圧しました。この功績で中佐に昇進、数年後には綿織工場を何カ所も作り、2500人もの人々に職を与えました。
30歳の時には、ボルティモアとワシントンを流れる大きな川の水力に目を付け,砂漠のような土地に緑の畑を広げることに成功。こうして、アメリカの農業関係者に大きな刺激を与えていきました。
家畜についても熱心で、家畜の品評会では、一人で育てた牛の中では一番立派なものだと賞賛されました。
ケプロンの農業に対する情熱は、はじめは機械工業の一次的なものとしてはじまりましたが、次第に農業への関心が深まり、ついに一生の大事業とすることを決心します。
ケプロンの人生は農業への愛情で満足し、残りの人生をそのまま過ごそうとしていた時、南北戦争が起こりました。
60歳になるケプロンも南北戦争に北軍義勇兵として駆り出され、将軍として勝利をおさめました。1867年、アメリカ合衆国政府で農務局長となります。それまで名ばかりの農務局長という地位でしたが、ケプロンは農夫であったため、農業社会の必要というものがわかり、自分のエネルギーや才能を全て農業の向上に役立てました。
そのような時にケプロンの前に現れたのが、日本の青年黒田清隆でした。
1871年(明治3 – 4年)、渡米していた黒田清隆に北海道開拓の要請を迷うことなく受け入れ、農務省に辞表を提出し日本に向けて出発しました。
アメリカの大統領や大臣たちは「アメリカ人がこのような名誉を与えられたことに、深く満足している」と励ましの言葉を贈りました。
同年7月訪日し開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となり、1875年(明治8年)5月に帰国となります。
ケプロンは北海道の農業のことばかりではなく、交通・運輸・排水などに必要な、道路や運河をどこに作るか、また、街や駅をどこに置くかの決定がありました。
ケプロンはまず、北海道全体の実地調査を行いました。その結果、札幌は気温が低く、作物が育ちにくい。また港がないので、首都は室蘭に移した方がいいという意見もありましたが、ケプロンは「雪は作物を豊かにする。雪の下には未来がある」と考え、札幌を基準とした開発に着手しました。
ケプロンは、アメリカの方法が日本の人々に受け入れられるかが不安でした。アメリカでは、新しい文明は必ず古い考えを持つ人に拒否されたからです。ところが、札幌の製材工場を訪れたとき、機械のノコギリで木材が次々と板になるのを、びっくりしながらも喜ぶ人々を見て「なんて進歩的な人たちだ」と感動しました。ケプロンは次々と開発事業に着手します。
豊平川を使っての農業水の確保、家畜・農産物の品種改良、石炭の採取に取り組みました。
本州の農家に見られなかったガラスの窓が、早いうちに普及したのも、冬は寒いからと防寒設備を強化したケプロンの考えでした。
札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンです。北海道は寒く、イネが育たないため、麦をつくることを奨励。北海道ではパン食を推進すべきだと主張した。ケプロンが麦作を奨励したことは、後に開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が設立される遠因になりました。
単に魚をとるだけでなく、塩漬けなどに加工すれば重要な輸出品になると進言。1877年(明治10年)10月10日、日本初の缶詰量産工場である石狩缶詰所が作られました。この日(10月10日)は、日本では缶詰の日になっています。
ケプロンの進言に従い、札幌 – 室蘭間、森 – 函館間までの馬車道が整備されました(室蘭 – 森間は航路)。この道は札幌本道と呼ばれ、現在の国道36号と国道5号の基礎となっています。札幌 – 室蘭間に鉄道も敷くべきだと進言しましたが、在日期間中には敷設されませんでした。
明治8年、開拓構想は軌道に乗り、自分のなすべきことは終わったと、アメリカに帰りました。
その時、737ページにも及ぶ報告書を残していったのです。この莫大な量の報告書を見て、日本政府はケプロンの北海道開発は、日本の領地の一部を整えるだけでなく、この大地に眠る宝を見つけ出すための事業だったと気づいたのです。
(西伊豆の依田勉三は、このケプロンの文章を読んで晩成社を設立し、明治16年に十勝に開拓に入りました)
1885年(明治18年)2月21日、ワシントン記念塔の建設祝賀会式典に出席し、帰宅後に気分の不調を訴え、そのまま翌22日に80年の生涯を閉じました。その遺骸は、ワシントンのオークヒルに葬られています。
写真は札幌の大通公園(大通西10丁目)に黒田清隆像と並んで建つ銅像です。