黒沢酉蔵

明治18年3月28日~昭和57年2月6日 
茨城県出身

雪印メグミルク、現在の酪農学園大学の設立者
日本酪農の父・北海道開発の父と呼ばれています

「東月寒白樺会館」は、札幌市豊平区にとっては地域のシンボルです。
しらかば台小学校の裏手にあるので子供たちには懐かしい建物です。
この会館の二階に横綱「大鵬」が訪れた時の写真が掲げられています。なぜ大鵬が来たのか定かではありませんが、この会館は雪印乳業創業者黒澤酉藏の弟・和雄氏が、昭和8年より経営する「黒澤牧場」の牧舎として使われていました。おそらく、大鵬の後援会でもあったのでしょう。
その後、千歳に移転し昭和45年に町内会に寄付されて公共施設として使われています。

生い立ち

明治18年、茨城県久慈郡(現・常陸太田市)で農家の四人兄弟の長男として生まれました。すでに零落しており、父の飲酒癖がもとで負債をつくり母は巡業などもして家計を支えていました。
明治28年、尋常小学校を卒業後漢学塾に1年ほど通った後、村の涯水義塾に行きます。更に勉学を積みたく、父母に東京行きを願い出ますが、父からは反対されます。
しかし、母に「どんな苦労や困難にも耐え抜く覚悟があるなら行ってよい」と送り出されます。
明治32年14歳で東京へ行き、東京数学院で給仕生として生活を始めますが、教師をしていた松本小七郎の誘いで書生となり、正則英語学校に通うようになりました。

田中正造 (足尾鉱毒事件)

田中正造

青春時代に、偉大な人格者に出会って一生が決まることがあります。
明治34年12月10日代議士田中正造が、栃木県足尾銅山から流出する鉱毒に苦しめられている農民救済のため、天皇陛下の馬車に駆け寄り直訴。
黒澤は当時17歳、東京・文京区にある京北中学へ通う学生の身。
直訴は陛下のご意向で穏便に済まされ、何のとがめもなく釈放されました。
「是非、田中先生に会いたい」…矢も盾もたまらぬ気持ちで、芝口2丁目の越中屋を訪ねました。
越中屋は行商人の泊まる3等旅館。とうてい天下の代議士が泊まるような宿ではありません。そのことにビックリしましたが、紹介状とてない少年に田中は快く会い、質問に対して、事件の真相や経緯などを丁寧に理路整然と話しました。
田中の人柄に感銘し、一緒に農民救済に関わることを決意します。

小田中

黒澤は、被害地の青年達が立ち上がるべきと考え「青年行動隊」の組織化を目論みます。このような行動から”小田中”とも呼ばれるようになりました。
この活動を好ましく思わなかった警察は、明治35年3月、逮捕し前橋監獄に勾留されます。6カ月間、田中が有力な弁護士をつけてくれて無罪となります。
黒澤の将来を心配した田中から学問を修めるように説得され、当時籍のあった京北中学校に復学し明治38年3月に卒業します。資金は田中からの育英資金恵与の懇請を受けた蓼沼丈吉からでした。

母の死と北海道

卒業後、社会活動を続けて行くか迷っていた矢先、母の急死という不幸に見舞われます。幼い弟妹を養う立場に立たされた20歳の黒澤は、心機一転、北海道行きを決意します。
それは、田中に感謝を忘れることのなかった黒澤は、田中に早く恩返しをしようという気持ちもありました。北海道は発展途上で、事業を興して成功をおさめたいと願う人間にとっては絶好の土地でした。
明治38年、21歳の夏、大きな志しを持って北海道に渡りました。

宇都宮仙太郎との出会い

宇都宮仙太郎

新たな出会い 酪農業と北海道開発に尽くす。
札幌に着くと、田中の知り合いの代議士からもらった紹介状を持って北海タイムスの理事・阿部宇之八を訪ねます。
そこで、白石村で酪農を営む宇都宮仙太郎を紹介されました。

宇都宮から、牛飼いには三つの徳(得)がある

「役人に頭をさげなくてもよい」
「動物が相手だから嘘をつかなくてもよい」
「牛乳は日本人の体位を向上させ健康にする」

その話を気に入り「宇都宮の牧場牧夫」となることを即決しました。

酪農の作業は辛いものがありましたが、自作の道具で乳搾りの練習をしたりして熱心に取り組みます。

東月寒白樺会館

4年後の明治42年、24歳の春に宇都宮から独立し、山鼻村東屯田でエアシャー種1頭をもってスタート。朝3時に起き牛の世話、搾乳をし、5時には牛乳を配達。

軌道に乗ったころ結婚し、故郷から兄弟(弟・和雄は10歳、東月寒白樺会館公園に建てられている和雄像)を呼び寄せました。
ところが、大正12年の関東大震災直後に、アメリカから練乳が援助物資として大量に届けられます。更に、乳製品の関税も撤廃され輸入品が増えると、国内の酪農家は苦難に陥ります。そうして、それまで酪農家が絞った牛乳を引き取ってくれていた練乳会社が買入制限を始めたのです。乳牛は毎日乳を搾る必要があるため、自分たちで販路を確立しなければならないことになりました。

北海道製酪販売組合

大正14、宇都宮仙太郎を含む他の酪農家とともに産業組合「北海道製酪販売組合」を設立しました。組合長に宇都宮、黒澤は40歳で専務理事。これが現在の雪印乳業の前身です。
そうして、皆の協力で出来上がった製品の第一作が、雪印バター。
その後もチーズ・アイスクリームの製造販売を始め、バターは海外にも輸出するようになりました。

昭和8年、48歳になった黒澤は時代を担う酪農業を学ばせようと、江別に酪農義塾を設立します。のちに酪農学園となるこの学校で自ら塾長となり、塾生に農民魂を吹き込もうと「健土健民」を唱えました。これは田中正造の農業中心の考えから生まれたものでした。
昭和15年、宇都宮が亡くなると、2代目組合長に就任。
戦中の厳しい時代でも組合を全国規模に拡大していき、昭和25年には雪印乳業株式会社と社名を改めました。