間宮林蔵

安永9年(1780)―天保15年(1844)4月13日没

現在の茨城県つくばみらい市に農民の家として
生まれる

 
間宮林蔵は学校の教科書にも登場する有名人ですが、私たちが知っているのは世界地図に唯一日本人の名前が載っているくらいだと思います。
幕末に各藩が記録として書かれた古文書に、間宮のことを記録したものが多く見つかり、学者や小説家は様々な角度から本を出しています。
しかし、あまりにも偶像化されたものが多く信ぴょう性に欠けるものが多いのです。「隠密だった」という説があるのですが、私はこの説を支持します。
 
生い立ち

天明の大飢饉と言われる時代に、現在の茨城県つくばみらい市に農民の子として産まれます。生まれつき数学的才能に優れていたようで、遊び方も他の子どもと違っていました。
竹竿を持ち、木の高さを測ったり、距離を計ったりしていたのです。
ある時、堤防工事を見ていた林蔵は、役人に向かって「そのやり方では、正確な深さは測れません」と言いました。この時の役人が村上島之允。
村上は測量役人で林蔵を伴って日本中を歩くことになります。その距離は一日120キロ、しかも村上の使う測量の器械を担いでの歩行です。江戸の男が歩く平均は40キロでしたから、その3倍を何日も続けるのです。このことが後の林蔵を作りました。

蝦夷へ

1800年代に入り、ロシアはしきりに蝦夷地に接触をしてきたため、幕府は村上に調査を命じます。この中に25歳の林蔵も入っており、林蔵の任務は植林調査で、丹念に調査した報告書は「杉やヒノキを植えるべき」と進言します。
これが認められ、「蝦夷地御用雇」を任命されます。

蝦夷地が職場となり、択捉(エトロフ)や国後(クナシリ)の実地調査を行います。この頃からロシアとの戦争は避けられなくなり、1807年択捉島でロシアの襲撃を受けるのですが、この時の林蔵の行動で、一躍幕府の上層部に知れ渡ることになりました。
択捉に300人駐在し防御していた部隊の上司が戦わずして「退却」を命じます。林蔵は一人拒み上司に「間宮は攻撃を提言したことを、証文として残していただきたい」と迫ります。このことが「身分は低いが上級武士たちの及ばぬ働き」となったのです。

樺太へ

幕府は北方の守りを固めるため、ついに樺太の探検を決めます。
そこで選ばれたのが33歳の林蔵でした。1808年4月、宗谷岬から樺太に渡り北に向かって進みます。しかし、北の海岸に着いたところで一面氷のため舟が出せません。氷が溶けるのを待って出発。いよいよそこから先が世界中の探検家の誰もが行ったことのない問題の場所です。(樺太の面積は北海道と同じほどあります)
「このまま舟が進み、黒竜江(アムール川)の河口を通り過ぎて海にでれば樺太は島。もし途中で陸地にぶつかり、行き止まりになれば、半島」
右手に樺太の海岸、左手にシベリアの海岸、その間の狭い海峡を舟は北に向かって進みます。そうして、ついにその島影を通り抜け大海原に出たのです。

それから林蔵は対岸のシベリア大陸に渡り、アムール川をさかのぼり奥地に向かいます。この時の状況を印したのが「東韃地方紀行」です。

樺太探検で幕府が林蔵に命じたのは2つありました。
アムール河流域の東韃靼と樺太に、ロシアがどの程度進出しているかです。
林蔵の調査でアムール河流域は清国領であって、ロシアの影響は無いというものでした。
もう一つは義経伝説を内密に調べることでした。義経が蝦夷からアムール河流域に渡り支配者になったという説です。これは根も葉もない浮説ではないことを知ることとなります。
「アムール河から約200キロ上流にサンダゴという地があるが、そこに赤い石に彫った馬の絵があるが、それは日本の画法に似ており、義経がその地を過ぎる時、矢の根で刻み付けたものだと言われている」と現地の者から聞いたのです。

再び蝦夷を訪れたのは1812年、それから1822年まで蝦夷地の測量に勤めます。伊能忠敬が完成間近としていた「大日本沿海興地全図」の北海道部分を完成させるためでした。彼が残した地図は集落の名前が細かく書かれていたといいます。
間宮が亡くなったのは1844年。明治維新の24年前のことで、69歳の人生でした。

その頃、シーボルトはかつて日本から持ち帰った「林蔵の樺太の記録」を加えて、世界地図を完成させます。シーボルトは作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名したのです。
しかし、シーボルトを国外追放の原因を作ったのは間宮本人でした。
シーボルトからの手紙を、外国人との接触を禁じていた時代でしたので、手紙の中を見ないで上司に渡したのです。
農民出身が役人になったことで、幕府に対して最後まで忠義を尽くしたといえます。
ちなみに、義経ジンギンカン説はシーボルトが林蔵から聞いた話を広めたものです。
 
蝦夷と義経伝説について

18世紀後半になるとロシアの南下政策が本格的になりました。
幕府は松前藩に任せておいては、蝦夷地がロシアの手になると危機感を持ち幕府直轄とし、江戸から役人を次々と送り込みました。最も問題なのは原住民であるアイヌ民族の存在です。この民族が日本に付くか、ロシアに付くかで蝦夷の領土が左右されます。
そこで幕府は策を練り、義経伝説を利用しようとしました。アイヌ民族に伝説として伝わる義経はアイヌが崇拝する人物だったからです。中世(鎌倉)時代から日本人が蝦夷地を支配していたという証拠になると考えたのです。樺太の南側はアイヌ民族でしたが、どこまでが北部なのかが分かりませんでした。
シベリアの半島であればロシア領、島であれば間違いなく日本領土ということです。