菅野豊治

菅野豊治

1894(明治27)年9月生まれ
昭和40年2月没 享年71歳

農村地帯を車で走ると、農家の庭や倉庫に「白い」農機具が目につきます。これは「白」で知られるプラウのトップメーカースガノ農機の農機具です。

旭川から国道237号を美瑛を過ぎて上富良野に向かうと市街地に入る交差点があります。
左に入ると市街地ですが、右折すると土の博物館「土の館」が見えてきます。
農業の原点である耕(たがや)すことに一生を賭けた菅野豊治の人生が展示されています。

北海道の開拓は原始林の大木を伐り、切り株を掘り起こし、硬い台地を耕すという一連の作業を人の手で行っていました。馬に曳かせるプラウの開発が進んで格段に能率があがります。

生い立ち

1894(明治27)年9月1日生まれ。豊治は7人兄弟の6番目として、現在の岩手県江刺市で生まれました。12才のとき、豊治は父や母たちと一緒に上富良野村へ開拓農民として引っ越してきました。
16才のとき近くの松岡鉄工場に丁稚奉公で入りました。朝は暗いうちから鉄を焼いて打って、クワやマサカリなどを作り、8年間の奉公が明けた大正6年、24歳の時に現在の上富良野農協の近くで菅野農機具製作所を開業します。
クワ・マサカリや山林用具などを作りながら、プラウの修理もしていました。

このころになると農作業に家畜を使用が多くなり、馬に曳かせる「プラウ」が農機具の主流を占めていました。
開墾前の土地は石や木の根が多く、プラウが破損したり摩耗するので、豊治の店にはプラウが持ち込まれ、それを夜通し修理をしていました。またそのとき、両親をよんで一緒に生活を始めました。

そんな姿を見ていた地元の三枝甚作は、熱心な仕事ぶりにほれこみ「プラウ作りをやってみないか」とすすめます。やがて、そのことがきっかけになり26才のとき、甚作の娘サツを伴侶として迎えました。

ある日、店に身なりの貧しい旅人が立寄ります。
その旅人を客として迎え入れ、泊まる当てがないと聞くと、食事と宿まで提供しました。翌朝、旅人は家族がまだ寝ている間にメモを残して出ていきました。
メモには、なんと現代のプラウの製作には欠かせない鉄の「三層鋼板」の作り方が書かれていました。このメモをもとに更なる研究を重ねます。

大正15年、十勝岳が大噴火

噴火によって144名が亡くなり、800㌶の田畑は火山性の鉱毒を含んだ泥流で埋め尽くされました。村人たちは近郊の山を削り、その土を運び出し泥流の上に積み上げて畑は徐々に元の大地によみがえっていきました。それをまじかで見ていた豊治は、益々プラウの研究に力を注ぎ、ついに菅野式炭素焼プラウを完成させます。しかし、土が付着するので上手に耕せません。再び、土の研究を始めます。そうして、粘土質、火山灰、水田、泥炭地とそれぞれの土質に合うプラウを開発しました。

昭和5年北海道農事試験場の比較審査において、18センチの深さまで耕せる「6寸深耕プラウ」、昭和7年には24センチ「8寸深耕プセウ」が優良農具に入選し、その後道庁の奨励農機具にも指定されました。

満州の移駐工場

軍国主義を進めていた日本は、土地を持てない次男坊、三男坊たちの独立のため続々と満州に向かわせました。
国は北海道の模範農家200戸を実践指導農家として、満州に招き菅野豊治にも依頼が来ます。豊治は家族と10名の従業員たちとともに移住しました。出発までに、農家に貸し売りしていた代金を棒引きにしました。
こうして骨を埋めるつもりで満州に渡り、日本人だけでなく満州人も雇い、彼らにプラウの作り方を教え込みます。
2年後の昭和18年には一日50台のプラウを出荷するまでになりました。

ところが昭和20年、日本の敗戦によって状況は変わります。
豊治は覚悟を決め、全員に青酸カリを渡しましたが脱出のとき、暴徒たちは豊治と分かると危害を加えず見逃してくれました。
こうして命からがら故郷の上富良野に家族そろってたどり着いたのは昭和21年の秋でした。

事業再開

小さな小屋を建てて工場にし商売を再開します。
14歳の息子に15歳の若者3人、計4人の従業員でプラウの製作に打ち込みました。豊治が帰ってきた噂は村中に広まりました。
戦後間もない食糧難の時代、工場入り口のムシロ戸の中に、米やソバ、馬鈴薯、豆、野菜、どぶろくまで置かれていました。

仕事が軌道に乗り始めると、自社のプラウを白い塗装に統一するようになりました。「白はごまかしが効かない色だ。白い色はどこにあっても目立つ。だから、変なものは作れん。農業に役立つ仕事をするという、俺の原点はこの白なんだ」

6年後の昭和27年、旭川で行われた日本農業機械化大博覧会で、豊治が製作し出品した7機種のプラウ全てが入選合格し、金牌を受賞したのです。

戦後の高度成長期、時代は馬からトラクターへ

大型トラクター用プラウ。続いて昭和39年、国産ビートハーベスターを開発して商品化を行います。この白いビートハーベスターの開発によって、ビートの収穫は手作業から本格的な機械化時代へと入りました。

昭和40年2月、豊治は71歳で突然心筋梗塞で亡くなりました。
墓には、満州からの引き揚げ船の中で詠んだ歌が歌碑として建立されています。
「落ちぶれて、袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知らるる 忘るるな 人のご恩を」

豊治が戦後、裸一貫で興した掘立小屋の工場は「労作為人記念館」と名付けられ、当時の農業の様子の展示を始めました。これが現在の「土の館」となっていきました。

1980(昭和55)年、茨城県稲敷郡美浦(みほ)村に大きな工場を建てました。
現在、日本のプラウ市場の8割はこの工場で生産し、日本農業機械の業界では、中堅のメーカーに発展しています。