現如上人(げんにょしょうにん)

1852(嘉永5)年―1923(大正12)年
享年72歳
京都・東本願寺第22代法主。真宗大谷派管長。前法王大谷光勝の四男。
現如は法名で大谷光瑩(おおたにこうえい)

国道230号の前身である「本願寺街道」を開設

本願寺街道
国道230号は、現在札幌から久遠郡せたな町までの148.7 kmの国道です。この国道の前身となるのが、1870年(明治3年)、京都の東本願寺代表の現如上人らによる北海道開拓活動として、札幌と伊達を直結する「本願寺道路」の開削です。

工事を開始し翌年の明治4年、一年3か月という早さで札幌平岸から尾去(おさる)別(べつ)間の105キロ、幅2.7mの道路を完成させました。当時のルートは厳密には伊達市から洞爺湖沿岸を経た後に現在の230号線ルートに入り、旧平岸村に至る街道でした。
中山峠の「道の駅望羊中山」を下っていくと、すぐ左手に銅像があります。

気をつけて見ていないと通り過ぎてしまいます。昭和44年、北海道開拓100年を記念して本願寺街道開削の祖、19歳の現如上人像を中山峠頂上に建立しました。
道の駅ではなく、右側の「峠の茶屋」に車を停めるとよく分かります。
道の駅が出来る前はこちらしかありませんでした。喜茂別町になります。

 

いきさつ
東本願寺が北海道開拓事業にかかわった背景には政治色がありました。新政府は、江戸幕府を倒した薩摩・長州藩が中心となりましたが、維新の際に味方したのは西本願寺で徳川幕府と親密な関係があった東本願寺に対して圧力をかけてきました。ロシア侵略から日本を守るために北海道開拓を急ぐ必要があり、また札幌を拠点とするにも道南の函館を中心とした道しかありませんでした。
内乱続きで人も金もありません。そのような時に、東本願寺から政府に願書が出されます。新道切開・農民移植(移民奨励)・教化普及の三要項で新政府の意見に従って書かれたものでした。

東本願寺と西本願寺は元々ひとつで、親鸞を宗祖とする浄土真宗のお寺でした。1496年、戦国大名に匹敵する勢力を持つようになり石山本願寺といいました。(現在の大阪城の場所)織田信長に明け渡しを求められ10年間の戦いの末、当時の門首顕如は本願寺を退去しますが長男の教如は本願寺に立てこもります。この時に本願寺が二つに分かれました。四ケ月籠城しますが本願寺は焼き払われます。その後、秀吉の時代に入り、京都に再興を命じられたのが西本願寺です。続く家康の時代に最後まで抵抗した教如にもう一つの本願寺建立させたのが東本願寺でした。

21代目厳如上人は新政府の中に「東本願寺も幕府と共に倒すべき」の意見があることを知り、新政府を訪ねて忠誠を誓います。その証として軍資金2万両、米5千俵を政府は要求し、更に、北海道の道路開削を言い渡したのです。
この大事業を任されたのが19歳の現如上人でした。父は高齢で長旅ができないため跡取りの息子に回ってきたのです。現如は四男でしたが、上の三人とも亡くなっていました。

明治3年2月、白い法笠を頭に、紫の法衣、白緒の草履といういでたちで旅立ちました。京都の街には沿道の両側を人垣で埋め尽くされ手を合わせたといいます。27名の門徒たちと、各地を巡って人集めをしたり、大事業のための寄付を募りながら、中部、北陸、東北を北上します。土地や建物を持てない農家と寺の次男・三男に、「新しい田、新田を耕してほしい、ともに新しい生活を打ち立てていきましょう」次々に一行に加わり、その数は百名にも膨れ上がりました。寄付も集められ、すべて順調と思われましたが秋田の久保田藩から立ち入りを拒否されます。「寄付や人集めをされては藩の勢力が弱まる」の理由でした。この話を聞いたある船頭が、「陸路がだめなら船でお連れします」と申し出ます。

明治3年7月。京都を出てから5か月後に函館上陸となりました。開拓長官の東久世を訪れ、道路開削と仏教布教の旨を伝えます。計画した新道開削と改修は4本。道南では、七飯の軍川から砂原まで18キロの新道、江差街道76キロの改修、札幌は本府を中心に山鼻から川沿の6キロの新道、更に最も過酷となる中山峠を含む札幌平岸から伊達に至る103キロの新道開削でした。

札幌南区には無意根山(1464m)、札幌岳(1293m)、定山渓天狗岳(1145m)など1000m級の山々が聳えています。本願寺街道は、この山々を超えて喜茂別に入らなければなりません。
今はコンクリートの塊が連続する国道になりましたが、当時は手に斧を握っての人海戦術です。作業員はアイヌの人たちや伊達藩士たちも加わり、後に現在の栗山町の開祖となる泉麟太郎などもおりました。工事に加わった人数は延べ53,300人にのぼり、架けた橋は113か所となりました。

南区に簾舞(みすまい)という地区があります。本願寺街道が開通された事に伴い、翌年に旅行者や開拓者の休憩、宿泊所のために簾舞通行屋が設けられます。
特に、定山和尚によって開かれた定山渓温泉は大助かりでした。黒岩清五郎を通行屋に指名し移住させます。

この施設は現在札幌指定有形文化財として一般公開されています。
また、簾舞中学校の通学路入り口に[札幌ふるさと文化百選・本願寺街道]の案内板が設置されています。この看板に、旧本願寺街道と現在の国道230号が記載されております。地図を良くみると、旧道は沢を通るように曲がりくねり、国道は直線道路です。
この旧道と云われる道を車で走ってみました。沢伝いに道路が作られたことがわかります。山間渓谷難所続きを1年3ケ月の突貫工事で完成させたことは奇跡だったのではと思います。現在も中山峠を超えるには曲りくねった坂道を、アクセルを踏みっぱなしで上らなければならず、吹雪ともなれば危険な山越えとなります。

札幌ススキノの外れに東本願寺札幌別院があります。
明治3年7月、東本願寺管刹寺(管刹寺とは寺の建物として天皇から授けられた)として設立され、明治9年に札幌別院と改称。
境内には堂々とした二本の松が歴史を感じさせます。本堂をはじめ書院・納骨堂・ホール・幼稚園の他に墓地もあります。