平治元年(1159年)~文治5年(1189年)4月没 享年31

 

蝦夷地に住んでいたアイヌの人達は、津軽海峡を渡ってきた和人を「シャモ」と呼んでいました。
シャモとはアイヌ語で「親しい隣人」という意味です。
和人の集団が最初に蝦夷に入ったのは文治5年(1189年)。
松前藩の始祖武田信広が蝦夷に入ったのは1454年なので300年近く前のことです。
源義経は平氏滅亡後、平泉へ逃れて奥州藤原秀衡に庇護されていました。
文治4年(1188年)、頼朝は泰衡と基成に義経追討を要請。
しかし、泰衡は部下に裏切られ藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じます。
その藤原泰衡(やすひら)の残党が海を渡り、これが、シャモの第一陣でした。
 
義経伝説

北海道には義経伝説が120を越えます。
青森の竜飛から福島に渡り、日本海側を松前、江差、寿都、岩内と進み、洞爺湖、支笏湖、平取、新冠、留萌 、旭川、稚内に至るのが一般的な道筋です。
道内最大の伝説があるのが平取町で、義経資料館もあります。

これらの伝説にはいくつかの共通点があり、恋愛、黄金、隠れ里、巻物盗みで、アイヌの娘が関係しその名前はメヌカ、チャレンカ、シララが代表的。
恵庭のラルマナイ滝は財宝を埋めたという黄金伝説、本別町の本別公園弁慶洞は弁慶たちが一冬すごしたという隠れ里伝説もあります。
そのために、アイヌ英傑シャクシャインは義経の末裔という話まで伝わっています。更に、話は飛躍し稚内から樺太に渡りジンギスカンになったという伝説まで生まれました。

和人が蝦夷地に渡った当初は、和人の紹介として義経を英雄として話したことが、神を崇拝するアイヌ民族に受け入れられ、伝わっていったのではないかと思われます。
従って、アイヌ部落のあったところに、義経伝説が残っているのです。

北海道の海岸線は源義経の伝説だらけですが、島牧町から寿都町に入る弁慶岬も例外ではありません。義経と弁慶が蝦夷に渡ったことを知った後に、家臣たちも旅立ったことを知り、弁慶が海を眺めて待ちわびているところです。
近くに相撲場があり、こちらは悲しむ義経を励ますために弁慶がアイヌと相撲を取ったと伝えられています。

寿都には義経の家臣、佐藤継信の末裔が明治初期に建てた、漁場の代表的な建築物が有形文化財で残されています。
この佐藤継信は、源平屋島の合戦で義経めがけて飛んできた矢を身代わりになって受け、戦死した忠臣といわれています。
建物内の長押には、家紋の「源氏車」をかたどった金具を打っています。 

義経一行は、ピラトリのアイヌ集落に落ち着いて、農耕、舟の製作法、機織りなどを教え、アイヌから「ハンガンカムイ」と慕われます。
1798年、北方調査のため蝦夷地に来た近藤重蔵が、アイヌが崇敬していたオキクルミという英雄を源義経と同一視し、仏師に作らせた源義経の神像をアイヌに与えて祀らせたのが始まりです。この伝承をまとめたアイヌ民話が小峰書房から出ています。

神威岬

源義経を慕っていたアイヌの娘チャレンカが本土に向かう義経をここまで追ってきますが、すでに義経を乗せた船は出発した後で失意のうちに海に身を投げてしまいます。
その後、この岬の近くを、女性を乗せた船が航行すると必ず遭難するため、「女人禁制の門」が出来たと伝えられています。神威岬(積丹町)

 

 

九郎岳・姫待峠・姫川 (乙部町)

義経が蝦夷地で最初に上陸したのが乙部町という逸話が残っています。乙部岳は義経の別名九郎半官から九郎岳、静御前を思いつつも越えなければならなかった姫待峠。
乙部にたどり着いた静御前ですが、義経は乙部岳を越え2人は会うことが出来ません。静御前は、川に移った自分の姿を見て望みも力も失い、その川に身を投げてしまいましたことから「姫川」と呼ぶようになりました。

恵庭から支笏湖に向かう途中にラルマナイ川の滝で1939年頃大量の砂金が発見されました。義経の財宝を求め、古文書を解読し探索していた人が発見。
牛若丸時代に、京都から奥州藤原氏のもとへ義経を導いたのが金売吉次、奥州の金を京都に運ぶ仕事をしていました。
山形県最上郡の金山町には、「吉次山」と呼ばれる金山があり、この黄金は奥州藤原氏の平泉での栄華を支え、義経の戦や逃亡の軍資金になったとされています。(恵庭市)

義経試し切りの岩(稚内市)

稚内・宗谷岬にたどり着いた義経主従の姿はみすぼらしく、樺太への舟を懇願しても現地のアイヌは彼を義経だと信じません。
怒った義経が傍らの岩を一刀のもとに切り、源氏の大将だった自分を証明します。アイヌの人々はこの岩を祀って、義経の無事を祈りました。一行はここを最後として蝦夷地を離れます。