荻野吟子

1851(嘉永4)年~1913(大正2)年

明治時代に女医第一号となった女性で、後に道南の「せたな町」で荻野医院を開き10年間地域医療を勤めました。

渡辺淳一の小説「花埋み」で知られることとなり、昭和39年NHK「女医記」主演小山明子。昭和46年ポーラ名作劇場で大空真弓が演じ。演劇にもなり山本陽子や三田佳子が主演。その他多数演じてきました。
今、また、若村麻由美主演『一粒の麦』で始まっています。

荻野吟子の足跡を訪ねて「瀬棚町と今金町」を訪れたことがあります。
せたな町では荻野医院を開いていた場所に碑が立てられていました。
この碑は、今は児童会館に移されたようです。
せたな郷土資料館には三田佳子主演の『命燃えて』のポスターがあり、日常生活に使用した遺品の数々や医学的にも貴重な資料が展示保存されていました。
こちらも今は立派な資料館になりました。

生い立ち 

埼玉県に生まれ、代々庄屋を務めてきた家柄で、父親は儒教教師を招くほどの教育者でした。
明治元年、16歳で嫁ぎました。地元の名主という家柄でしたが、2年で離縁状を突き付けられました。
淋病を夫から移されたのです。性病にかかった恥ずかしさを打ち明けることができずにいたため、家族に知れると、彼女自身が持っていた病気とされ、その家を追い出されることになりました。

明治3年、実家に戻った吟子は人目を避けて上京し入院生活をおくります。
しかし、そこでも屈辱を味わうことになります。
ただれた患部を医者や学生たちの目にさらし18歳の吟子にとっては恥ずかしいつらい日々でした。
2年にもわたる入院生活の間に、ひとつの決意が生まれました。
「自分で医術を勉強し、自分で病気を治そう。そして同じように苦しんでいる女性たちを助けたい」

女医への道は絶望
           
医者を目指したいというと、家族の反対を受けました。
女が男たちに混じって学問をしようとは考えられない時代だったのです。
明治6年、22歳の時上京し国学者のもとで学びました。
その2年後、東京女子師範学校が開校、後のお茶の水女子大学に一期生で入学。

当時74人いた学生は結婚のため退学し残ったのは15名。
明治12年、優秀な成績で卒業29歳になっていました。
希望は医学。教授は医学校を当たってくれますが女人禁制で断られてしまいます。諦めず懇願し私立の「好寿院」に入学させてもらうことができました。
(明治天皇の侍医で宮内庁の医師・高階経徳が秋葉原で開いた私塾)

29歳から3年間、実家の反対を押し切っており生活費も学費も、すべて自分でなんとかしなければなりません。家庭教師をしながら毎日5キロの道を歩き、月の明かりで本を読み、食事も切り詰める毎日でした。
こうして3年間を終えましたが、さらに苦難が待っていました。

開業試験

女であるということだけで試験を受けさせてもらえません。
衛生局長に頼み込んでみるという作戦にでます。(現在の厚生労働省の前身)
「女は前例がないからダメ」
「前例を見つけて認めさせればいい」古い書物をあさりました。
その中に「江戸時代、役人の娘が医学を習得し、御用を勤めた」というくだりを発見。
ひたむきな熱意に衛生局長の心を動かすことになりました。

明治17年、前期試験を受験。この時女性が他にも3人いましたが、合格は吟子1人だけ。翌明治18年、後期試験に挑み、難しい試験を突破し35歳。
ここに日本初の女性医師が誕生したのです。

荻野医院開業

明治18年5月、東京で小さな家を借りて荻野医院を開きました。
我が国初めての女医ということで大変な評判となり、新聞や雑誌は華々しく書きたて、患者は増える一方でした。眠る時間もない多忙な日々が続きましたが、時間外でもいやな顔ひとつせず患者たちを受け入れました。
ところが、大変な思いで勉強し医師となり、輝かしい名声の中で過ごしたのはほんの数年でした。

再婚

40歳の時に14歳年下の志方之善(しかたゆきよし)という青年が現れ、運命は大きく屈折していきます。
26歳の志方は、キリスト教徒で情熱的な九州男児でした。
女性として完成された年上の女性に憧れるのも無理はなく、吟子もまた、男性不信の暗く長い年月の後でした。二人は、つりあわないと反対されながらも結婚式を挙げました。

キリスト教は明治6年に禁制が解かれ、瞬く間に人々の間に広がりました。
しかし、明治20年代に入るとその反動で政府から圧迫を受けるようになり、信者たちの間で北海道に理想郷建設の動きが起こります。
志方は利別原野(現在の今金町)に200町歩の貸し付けを受け、結婚半年の妻を残し旅立ちました。

インマヌエル教会

明治24年、 之善は入植の地を新約聖書で「神 われらと共にいます」の意の「インマヌエル」と名付けます。 まったくの未開の地でした。

吟子は明治27年医院をたたんで後を追います。44歳になり、体力も落ちていましたが、夫と共に骨をうずめる決意をしたのです。

開拓地の現状を見ると驚きを隠せません。
毎日の激しい労働でマラリアにかかり、顔や手足は蚊・アブにさされ、赤く膿みただれていました。原野を開墾するということは、都会に住む人々には想像もつかないことでした。

志方の姉夫婦は赤ん坊のトミを残して亡くなり、吟子はトミを養女として育て、病気の人々の治療にあたりました。
ところが不幸なことに、貸し付けられた土地の返還を命じられ、成功地を除く全ての土地は国に返さなければならなくなりました。
さらに、返還した土地を応募者に貸し付け、一般の移民がみるみる業績をあげてゆき、農耕に未経験な志方の居場所はなくなってしまったのです。

せたな町

明治30年、理想郷づくりに夢破れた志方は、利別で伝道を続け、一方吟子は生活のため瀬棚に移り、ここで医者として再出発することにしました。
しかし、患者は現金を持っていないため、お礼に魚や野菜を置いていくだけの者が多く生活は一向に楽になりませんでした。

更に、不幸は続きます。
志方が突然過労で倒れ明治38年42歳の若さでこの世を去りました。

明治41年、58歳になった時、トミを連れて東京に戻ることにしました。
東京で小さな家を借り、そこでひっそりと医院を開き、その5年後、大正2年、63年間の波乱の人生を閉じました。

荻野吟子は女子の政治活動を禁止する政府に対し、衆議院の女子の傍聴を認めさせたほか、官立学校への女子の入学許可と女子医大の設置を求める運動を続け、女性の地位確立の第一歩を築き上げました。
日本女医会では、昭和59年に荻野吟子生誕100年として「荻野吟子賞」を設けました。

今金町

今金町は札幌から国道230号で中山峠を超えて長万部町の国縫から終点瀬棚に向かう山岳地帯の町です。
吟子は瀬棚に行く前に一時、国縫でも暮らしていたことがあります。
夫・志方之善が開拓で入植し「インマヌエル」(現今金町神丘)と名付けた地は、現在「神丘発祥の地」として教会や碑が立ち公園になっています。
山岳の高台にある町ですから、入植した当時は原始林で先は見えなかったでしょう。今は切り開かれて広大な平野となっています。