松前慶広

 

松前 慶広(まつまえ よしひろ)

 1548年(天文17)~1616年(元和2年) 享年69歳
武田信広から五代目で松前藩初代藩主となる。
幼少から腕力や胆力、戦略に優れ、人望も厚かった。
武田家を継ぐ者は、みな「広」が付けられています。

 

康正3年(1457)、首長コシャマインに率いられたアイヌ部族との戦いで活躍したのが武田信広で松前藩の始祖といわれています。

慶広は蛎崎李広(かきざきすえひろ)の第3子。幼名を新三郎、1582年(天正10)家督を相続しました。

安東氏からの独立と蝦夷支配の確立

蝦夷地を支配していたのは秋田檜山の安東氏で、蛎崎家(武田が婿養子となり蛎崎と名乗る)が代官を務めていました。天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原征伐、秀吉の奥州検地や新たな動きが松前藩成立の決め手となりました。

秀吉は上杉景勝・前田利家らの諸大名に奥州検地を命じます。この時、蛎崎慶広は前田らと会い根回しをします。みな秀吉配下の検地奉行でした。
慶広はまだ16歳である安東家の上京に同行し、秀吉に謁見。秀吉は珍しい蝦夷が島の話を聞き、遠路の労をねぎらい、慶広に従五位下民部大輔の官位を与えました。出陣中の徳川家康にも、山丹織と呼ばれる蝦夷錦の道服を纏って行き、その場で脱いで献上します。
左の「山丹服」(写真)は留萌市黄金岬の高台上にある「海のふるさと館」に展示されている複製です。

私は網走市立郷土資料館で本物を見ました。
山丹(さんたん)とはアムール川下流域のことで、山丹人は、清朝に貂皮を上納する代わりに下賜された官服や青玉などを持参し、アイヌは猟で得た毛皮や、和人よりもたらされた鉄製品、米、酒等と交換していました。
前田利家には特に世話になったのでしょう。後に「松前」と改名するのですが、「松」は徳川家康の松平、「前」は前田から取られたとの説もあります。

文禄2年(1593年)正月、秀吉に志摩守を任ぜられ蝦夷島主と認める朱印状と、献上鷹道中伝馬の印章院を下されます。この朱印状(制書)は、秋田の安藤氏の代官としてではなく、蝦夷島主として蝦夷交易徴税権と、蝦夷にたいする和人の取り締まり、蝦夷の支配者の地位を認めたものでした。
蛎崎家は安東家から離れ、蝦夷地の領主となります。朱印状を領民に示し、アイヌを集め、自分の命に背くと秀吉が10万の兵で征伐に来ると伝えました。

徳川家康の黒印状(制書)

この黒印状は札幌厚別区にある北海道博物館が保存しています。

     
       定
1、諸国より松前へ出入の者共、志摩守へ相断らずして、夷人と直商売仕候儀は曲事たるべき事
1、志摩守に断無くして渡海せしめ売買仕候者、急度言上致すべき事

  付、夷之儀は、何方ぇ往行候共、夷次第たるべき事
1、夷人に対し非分申しかける者堅く停止の事
  右条々もし違背之輩においては、厳科に処すべきもの也。仍って件の如し。
               慶長9年正月27日 御黒印  松前志摩とのへ 


秀吉の制書が交易徴税権の承認であったのに対して、家康の制書は「松前氏の許可なく蝦夷交易ができない」こと、すなわち独占権を与えたことでした。このことが後々、アイヌ民族に悲劇をもたらすことになります。

松前慶広は慶長5年から6年間かけて、徳山館の南の台地に福山館を築き、アイヌに対しては「城」、幕府には「館」と称しました。
松前藩は徳川幕府の藩とはなっても米の取れない蝦夷地で無石の来賓待遇でした。
当時「城」を無断で建てることは許されず、慶広は幕府に対しては「館」を新築したと言ったのでしょう。
(現在残されている松前城は、幕末期に建てられた城です)
館の北側には、阿吽寺(あうん)・法源寺などが集中した寺町を設置しました。

賓客待遇でしたが、綱吉の時に交代寄合となり、吉宗の享保4年(1719)、1万石以上に格付けされました。
しかし、これは建前であってすでに寛永11年(1634)家光の上洛供奉には、1万石の軍役負担をつとめ、享保元年家継結納の際には、万石並の献上を命ぜられていました。参勤交代は対馬の宗氏と同じく三年一勤、のちにあまりの財政負担のため六年一勤を許されています。

藩域(松前藩が拡大した経緯の図です)

松前藩が設立された当時の蝦夷地におれる藩域は、おそらく石崎と乙部の間あたりではと推測されています。
藩域にアイヌ民族を含む松前藩は、福山城下を中心に東西各25里(約100キロ)、東は函館(亀田)東部の石崎付近、西は熊石にいたる乙部付近を松前地(和人地)、その奥を蝦夷地とし、亀田から東を東蝦夷地、熊石から西を西蝦夷地としました。
和人は松前地にのみ居住を許し、それぞれ亀田・熊石に番所を置いて取り締まりました。

松前慶広は元和2年5月(1616年)、剃髪して海翁と名乗り、10月12日に死去しました。享年69。長男・盛広は早世していたため、嫡孫である盛広の長男・公広が後を継ぎました。

「蝦夷の時代」のコラムで松前藩の歴代藩主を通して江戸時代のことを詳しく書いています。