小泉 秀雄(こいずみ ひでお)
1885年(明治18年)―1945年(昭和20年)

植物学者・登山家

大雪山系の標高2,158mの小泉岳に命名されています。
大雪山の父と言われています。

1911年(明治44年)に旭川の庁立上川中学校(現在の旭川東校)へ赴任した山形県出身の博物科教師。
大雪山という山はありません。旭岳を主峰とする連峰は、黒岳、十勝岳など全部で20以上の山々からなりたっており、その中には人名が付けられたものもあります。間宮林蔵の間宮岳、文人大町桂月の桂月岳、松浦武四郎の松浦岳、層雲峡の開発を行った荒井初一の荒井岳などなどがあります。
この大雪山を全山踏破し、膨大な植物を採集して植生や地形、沢の名に至るまでを緻密に調べ上げ、大雪山の山々の名づけ親となり、その全容を世に知らしめるという偉業を果たしたのが小泉秀雄です。

小泉岳(標高2,158m -表大雪-)は、赤岳と白雲岳の間にあります。
この山はこれといったピークがなく、稜線上に標識があるだけで山頂という感じはしませんが、赤岳からは見えない日高連山なども天気が良ければ見ることができるといいます。
周辺は大雪山の中でも最も高山植物の種類が豊富で、大雪山固有種のホソバウルップソウなどの高山植物観察コースとしては最適。
小泉岳の由来は、明治〜大正時代に大雪山全体の地質や植物を初めて本格的に調査した植物学者、小泉秀雄氏の功績を称え大雪山調査委員会が命名しました。

生い立ち

明治18年、山形県米沢市で旧米沢藩士の次男として生まれます。
生まれて間もなく父が亡くなり、母は二人の子供を連れて父の弟のもとへ嫁ぎました。弟は小学校校長で教育に熱心でした。しかし、四人の兄弟が生まれ裕福ではありませんでした。
2歳年上の兄は、札幌農学校を経て東大理科植物科を卒業。その後京大の植物教授となります。秀雄は東京の順天中学を卒業し、明治37年、岩手大学に入学。

植物学に興味を持ったのは、中学時代の理科の先生の授業が面白かったからです。高山植物の採集は岩手山で、これが初登山でした。
しかし、一年で退学となります。兄も大学生で、家計は苦しく学費が回らなくなりました。以後、地元の博物館などに勤めながら勉強に励み、明治40年、教員検定試験を受けて合格。
22歳で師範学校・中学校博物科動物生理の教員資格を取得。更に三年後、植物の教員資格を取り、三年余り勤めた中学校を辞めて、いよいよ高山植物の宝庫、北海道に渡ります。
北海道に行く理由は寒冷地手当が付くため給料が高く、この手当を研究費に回せるためでした。              


旭川に赴任

1911年(明治44年)、25歳の時に旭川の庁立上川中学校(現在の旭川東校)へ赴任。その翌月、早くも生徒たちを引率して、旭岳に登ります。初の大雪山登山でした。当時、大雪山に登る人はほとんどおらず、地形・地質の調査と植物採集を行い日本山岳会に発表しました。「大雪山―登山法及び登山案内」は、学会の注目を集めます。

大正7年、33歳の時に山岳誌に「北海道中央高地の地学的研究」を発表。
この手記は秀雄が「大雪山は学会未調査の暗黒地帯である。調査をしようにも交通は不便。宿泊するところもなく、道もない。更に熊の危険にもさらされる。
食糧調達と運搬、多大な経費を要する」と記したことで広く知られることとなりました。

当時は山の名も定着しておらず、最高点も2,345mとされていました。
先駆者として苦難の道ではありましたが、山の名付け親になることができました。当時の最高点である2,345mの山には「北鎮岳」と命名。そうして、美瑛にある山の形が富士山に似ている「美瑛富士」と次々と命名していきました。

大雪山群20数座の山名を名付け、名著『大雪山―登山法及登山案内―』(大正15年刊行)を著しました。
ところが、大正9年(1920)、9年間の赴任を終えて北海度を離れて以後、大雪山について周囲にまったく語ることがありませんでした。そのため、遺族や教え子たちでさえ、「小泉岳」があることすら知らなかったといいます。

小林秀雄は、独学の道をたどる在野の学者で、彼の死後50年が経過した平成7年(1995)になってようやく彼の教え子によって『小泉秀雄植物図集』(植物図集刊行会刊)が出版され、秀雄の業績が再評価されるようになりました。

兄の源一は東大理科植物科を卒業後、イギリスやスイスなど五か国に留学し、京都大学の植物教授となり、学者として成功していました。正当な学者の道を歩んだ源一は、弟秀雄の学界を無視した一人よがりな研究と非難しました。学者の立場から自分に反対意見を述べる兄を許せませんでした。
秀雄は研究者たるものは、名誉職に就任するものではないという考えを持っていました。
秀雄は兄のために大学をやめ、働いたお金を兄に仕送りしながら、独学で植物の分野を切り開いてきました。自分は今までなんのために兄の為に苦労してきたのか。
兄弟は亡くなるまで和解することはありませんでした。
以来、大雪山について、家族や周りの人々にも一切口を開くことはなかったといいます。

大正9年、旭川で結婚した妻を連れて、長野県松本市へ転任しました。
松本女子師範の博物科教授となって赴任した秀雄は、日本アルプス、富士、八ケ岳など、300以上の山を制覇します。北海道時代のような孤独な研究と違い、同じ志を持つ仲間にも恵まれました。

そうして、毎年のように大雪山を訪れました。
大雪山調査委員会は、小泉秀雄の業績を残すために、赤岳の隣の山頂に「小泉岳」と名付けました。秀雄はこのことに大変喜びましたが、相変わらず家族や教え子にも伝えず、寡黙を貫いていました。
昭和19年、伯耆大山に採集登山をしたのが、最後の登山となり、四ケ月後の昭和20年現職のまま胃がんでなくなりました。享年59歳でした。
16万点の植物標本は、国立科学博物館に寄贈され、中でも大雪山の学術調査は、学会と山岳界に大きな影響を与えています。