妹背牛商業高校

 

1932(昭和7年)9月21碑~2003(平成15年)4月2日

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道立妹背牛商業高校バレーボール部監督

 

 

1978年(昭和53年)、今から42年前のことです。
道内で3番目に小さな妹背牛町。商業高校の女子バレーボール部が全国制覇を成し遂げ、一躍全国区となりました。妹背牛商業に着任して9年。選手と寝食をともにし、苦しみを分かち合ってきた吉野勲にとって、生涯忘れ得ぬ瞬間でもありました。
しかし、地域の少子化や過疎化で生徒数が減少。学校は2009年(平成21年)3月に閉校しました。

全国高等学校バレーボール選抜優勝大会
優勝:1回(1978年) 全国大会出場回数:12回  全道大会出場回数:36

全国高等学校総合体育大会  全国大会出場回数:23回  全道大会出場回数:36回

国民体育大会  準優勝:2回(1977年・1979年)

生い立ち

白糠町・恋問海岸

釧路市の隣町、白糠(しらぬか)町で昭和7年、三男一女の長男として生まれます。父は職業軍人で、軍馬を調達する仕事に携わっており、父の影響もあり競馬騎手、少年飛行士、新聞記者の夢を見ていました。

釧路湖陵高校から日大へと進学。昭和30年、大学卒業後は厚岸の太田中学で教員としてスタート。
スポーツ万能の吉野は積極的に部活動指導を行います。ボクシング部・野球部・陸上部と色々なスポーツに取り組みました。バレー部監督になったのは、標茶の隣町・磯分内(いそぶんない)中学に転向してからで、当時バレー部主将だった悦子と結婚しました。

30歳を迎え赴任した庶路(しょろ)中学時代で校長の一言が転機でした。
「どうせやるなら全道制覇だ。君の指導でどこよりも強いチームを作ってくれ。そして、勝って、勝って勝ちまくるんだ」自らは選手経験のないバレーボールの世界。吉野は考えます。
「バレーは瞬発力。粘り強さとバネのある選手を育てよう」陸上のスプリント競技の練習方法を取り入れます。外で練習ができない冬は、廊下にハードルを並べて走らせ、選手の足腰を鍛えました。
基礎体力に自信をつけた選手たちは、精神的にも強くなり庶路中学女子バレー部は破竹の快進撃。
全道優勝どころか、前代未聞の159連勝という記録を打ち立てました。

「スポーツは勝つことだけが全てではない。中学に全国大会があれば、あの子達はまだまだ乗り越えなければならない壁がある。彼女達にもっと教えたいことがある」吉野は高校の教師になる決意をしました。

教え子達はバレーの強い釧路商・斜里・白糖高校へと巣立ち、みんな優秀な選手となっていました。

吉野は高校教員資格をとるため通信教育を受けます。
通常の授業のほか、放課後にバレーを教え、帰宅後一度仮眠し、深夜まで勉強し、早朝のマラソンで選手宅を回っては、部員を起こしてあるくというスケジュールをこなす毎日が続きます。高校教師の資格を取得。

地元の白糖高校への赴任を望んでいましたが、中学バレー界で159連勝という記録を打ち立てた監督がどの高校のバレー部を指導するか、教育委員会で問題となりました。
当時三強といわれた、旭川商業・白糖・斜里高校への赴任が考えられましたが、どの高校に決まっても他校から不満がでるというのです。そこで、一度もバレーで名を馳せていない学校なら問題ないだろうとなり、北空知の妹背牛商業高校に決まります。

 

昭和45年、吉野37歳。初めて妹背牛にやってきた一年目をコーチとして務め、二年目から積極的に動き始めます。妹背牛は指折りの米どころ。選手たちは農家で田植えと稲刈りで腰がやられ、満足にジャンプができません。親御さんたちに理解をしてもらわなければと説得に回ります。

町の人たちは面食らうことばかりでした。しかし、赴任後3年目の昭和47年全道優勝、全国ベスト16になる町民の空気は次第にバレー部の応援へと変わって行きました。
強くするために、各地の優秀な選手を引っ張ってきます。そのためには選手の住まいが必要で、それを自分の家でまかなおうとしました。悦子夫人は、最初は断りましたが、持ち前の明るさで町の人たちにも温かく迎えられました。新聞店、肉屋、材木屋、ガソリンスタンドと思いが伝わり、協力体制に熱が入り始めます。

吉野勲氏の持論

「コートの中に生活があり、コートの外に勝負がある」
「どんなにバレーが上手でも、日ごろの生活が乱れていては、難しい試合を乗り越えられない」
「高校バレーは基本が全て。高いトスを思いきりジャンプして思いきり打つ。これが完全にできることこそ大切。そして、真っすぐに上がる高いトスを全員が上げられること、それが吉野バレーの基本」でした。

全国大会は3月、練習不足になるので関東遠征で実力をつけるしかない。
吉野は町役場、商工会議所、農協と頼めるところは全て頭を下げて資金援助を依頼しました。

妹背牛バーレー部

昭和53年3月末、第9回春の高校バレー全国大会が開幕。
妹背牛はストレートでコマを進め、遂に決勝戦となります。対戦するのは、大会直前の練習試合で大差をつけられて負けた宇都宮女子商業高校でした。

はじめて大胆な選手起用を行いました。
主砲・吉野美津子を中心とした配置ではなく、守りを確実にする布陣にしました。
セッターだった主将仲俣をライトに移し、切込み隊長・実力派の吉田をセッターにしました。
吉野ばかりをマークしていた宇都宮は、田中のライトからの攻撃でチームワークを乱していきました。男子並みといわれた宇都宮のエース・渋谷のスパイクも守りの名手・式守と仲俣が拾いまくり、セッター吉田の見事なトスで、吉野・田中両エースのスパイクが決まりました。まさに、誰でもが高いトスを上げられるよう練習を積み重ねてきた吉野バレーでした。

 

妹背牛商業優勝に町はお祝いの花火が打ち上げられ、農協へは特産の「ユーカラ米」を注文する電話が殺到。優勝パレードには、人口5千人ほどの町に2万人が押し寄せました。

平成5年春、定年を迎えた吉野は23年間勤めた妹背牛商業バレー部監督を引退します。町はその功績を称え、町民栄誉賞を贈りました。その後、元監督がいたらやりにくいだろうと考え町を後にしました。
平成15年4月2日。奇しくも全国優勝を果たした同じ日に、70歳の人生を閉じました。