千代の山 
杉村 昌治 (すぎむら まさはる)

1926年(大正15)6月2日~1977年(昭和52)10月29日

北海道第一号の横綱。
戦後の荒廃の中で国民の希望の星となりました。

 

 

松前郡福島町は北海道最南端の町です。
道の駅横綱の里ふくしまに併設して「横綱千代の山・千代の富士記念館」があります。
両横綱は福島町出身で、千代の山は北海道初の横綱でした。そうして千代の富士は千代の山がスカウトした相撲取りです。千代の山が引退して「九重部屋」を創立し、最初に育てた横綱が北の富士。九重を継いだ北の富士が育てた横綱が千代の富士。
現在の九重部屋は元大関千代大海が継承しています。

生まれ

大正15年、杉村 昌治は漁師の五男として生まれました。
幼少から父の深夜のイカ漁を手伝い、朝方帰宅してから学校に行く毎日。13歳で身長182㎝、体重90キロ。
この頃、福島町に赴任した小学校教師で若狭という人がおりました。東京の相撲協会に精通しており、「地元に北海道青少年相撲大会優勝の怪童あり、力士に推薦したい」と電報を打ちます。杉村には道内各地から来ていた野球、レスリング、陸上などの勧誘に関心を持ち、相撲取りになる気などありませんでした。
しかし、恩師の熱烈な勧めで力士になることを決意します。

戦前の大横綱である双葉山の入門を希望していましたが、周囲から「双葉山に勝てる男になれ」と言われたことで昭和16年に出羽海部屋へ入門しました。
当初から横綱を期待されていたため、相撲部屋へ入門しただけで地元紙の記事になり、食糧難の時代でしたが、出羽海の方針でただ一人、腹一杯の食事を与えられるほどの逸材でした。
しかし、初稽古から数日後、予期せぬ災難が降りかかります。
力士にとって命綱である膝を傷つけてしまいました。
歩くのも困難になるほど症状は悪化。昭和17年の春場所は痛みを押し殺しての初土俵となります。
杉村の突っ張りの猛威は、他の力士を恐れさせるに十分でした。その場所を4戦4勝で勝ち越したのです。
番付に載らない新序で全勝をあげ、翌場所は序の口を飛び越していきなり序二段へ。そこでも8戦8勝をあげて三段目に躍進。三段目で初めて負けるまで18連勝という記録を作ります。

初土俵から5場所目で下積みを突破し、翌昭和19年には早くも十両入り。
この時に故郷の恩師・若狭が考えた四股名「千代の山」と改め、ここでも2場所連続優勝。戦争終結時の秋場所には、19歳6か月で幕内最年少力士となります。日本は戦争末期から敗戦直後であり、千代の山自身も軍需工場に勤労奉仕しながらの偉業でした。
双葉山は昭和20年に引退したため対戦はありませんでしたが、新入幕の昭和20年11月場所には10戦全勝を記録。力士となって3年半でした。戦後の食糧難の中でベテランたちが次々と引退し、昭和22年夏場所の時点で部屋の幕内力士が9人にまで減少した中で、千代の山は復活への大黒柱として期待されます。

大関昇進

昭和24年10月場所に大関へ昇進し、その場所は13勝2敗で北海道出身力士としての初優勝を挙げました。翌場所も12勝3敗で連覇を達成します。
今や各界一の実力と人気を兼ね備えたスーパースターでしたが、本人は少しも偉ぶったところがなく、合間を縫っては故郷へ足を運び子供たちに土産物を配るなどの配慮を欠かしませんでした。そんなところが、力士仲間や相撲関係者、福島町民から慕われましたが、その優しさが気の弱さとして、如実に現れるようになりました。

横綱昇進〜引退へ

1951年5月場所を14勝1敗で3度目の優勝を挙げ、ようやく横綱へ昇進。
念願の横綱に昇進した千代の山でしたが、新入幕の頃より全く体重が増えず、思うような成績を暫く残せずに苦労していました。
1953年1月・3月場所は2場所連続途中休場という成績不振の理由により、千代の山自ら「大関の地位からやり直しさせて欲しい」と異例の横綱返上を申し出ます。
しかし、当時千代の山は横綱・大関陣で一番若かったため、協会は再起に期待の方針を出してこれを認めませんでした。(これ以降、返上・降格を申し出た横綱は存在しません)。協会の激励を受けた千代の山は同年5月場所も全休の後、同年9月場所では11勝を挙げ復活。そして1955年1月・3月場所で2連覇を果たし、さらに1957年1月場所には自身唯一の全勝優勝を達成しました。

優勝は6回ですが、新入幕時代に羽黒山と同じ10戦全勝を記録。しかし、番付上位優勝制度によって逃したことがあるため、実質は7回といえます(うち全勝2回)。得意は突っ張りと右四つ、寄り。脇が堅く、相手に容易に左を差させません。また、突っ張りの強烈さは並外れており「太刀山の再来」とも評されます。突っ張りの稽古台にされた栃錦の歯が歪んだほど、非常に稽古熱心でした。
最盛期でも192cm・120kgの細身ながら筋骨隆々とした体型で「鉄骨のやぐら」と称されました。

1959年1月場所限りで引退し、年寄・九重を襲名。なお横綱在位数32場所は、それまでの羽黒山政司の30場所を超える当時歴代1位の記録でした。

独立後、最初の場所だった1967年3月場所に、弟子の大関・北の富士勝昭が初優勝を挙げたほか、十両でも弟子の松前山武士が優勝。
その後は北の富士を横綱に、独立時の弟子から北瀬海弘光を関脇に育てます。
また、出身地も卒業した小学校も同じで、後に昭和の大横綱とも言われる千代の富士貢をスカウト。千代の富士を幕内力士まで育て上げ、この頃から急激に体調を崩すようになります。やがて肺癌と診断されて入院し、千代の富士の新三役昇進を見ることなく1977年10月29日に51歳で没しました。