伊能忠敬 いのう ただたか

1745(延享2年)2月11日~
       1818(文化15年)5月17日

江戸時代の商人・天文学者

 

現在の千葉県九十九里町の小関五郎左衛門家の次男として生まれます。幼名は三治郎。父親は小関家に婿入りした身で、ほかに男1人女1人の子がおり、三治郎は末子でした。

伊能忠敬出生地

6歳のとき母が亡くなり、婿養子だった父は兄と姉を連れて実家に戻ります。三治郎は祖父母のもとに残り、読み書きそろばんや、教養を教え込まれ10歳の時、父のもとに引き取られます。

次男は、丁稚奉公に出るか婿養子に出るしかありません。三治郎に佐原村の伊能家から婿養子の話がきました。伊能家は、酒造業、運送業、金融業など手広く営んでいましたが、当主が亡くなり家運が衰えていました。そこで頭脳明晰な三治郎に後継者の抜擢となりました。こうして満17歳の時、4歳年上の女性と結婚。

伊能忠敬と改名

佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地で人口約5千人。関東でも有数の村でした。江戸との交流も盛んで、のちの忠敬の活躍にも影響を与えたといえます。 また、武士が住んでおらず、村民の自治によって決められることが多く、経済力が大きく村に大きな発言権を持っていたのが永沢家と、忠敬が婿入りした伊能家でした。
伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根水運などにも関わっていましたが、当主不在の時代が長く続いたために事業規模を縮小していました。他方、永沢家は名字帯刀を許される身分となり、伊能家としては新当主の忠敬に期待するところが大きかったといえます。
以後「伊能忠敬」と名を改め、お家再興のため全力を尽くします。自分が跡継ぎに選ばれた以上、誰からも伊能家に相応しい人物だといわれるようになりたい。そんな思いが原動力となり伊能家は復活を遂げていきます。
忠敬は、50歳までの30年間に財産を20培に増やしました。
しかし、一言でいえば金儲。算術で世のために役立ちたいと言っていた少年時代。そろそろ自分の為に生きてもいいだろう。20歳になった景敬に伊能家を任せ、江戸へ出て勉強をしたいと思うようになります。

高橋至時(たかはしよしとき)を師匠

寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ行き、深川黒江町に家を構えました。
江戸では暦を改める動きが起きていました。当時の暦は日食や月食の予報を外していたため評判が悪かったのです。忠敬は高橋至時の弟子となります。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳。弟子入りしたきっかけは、中国の暦『授時暦』が実際の天文現象と合わないことに気づき、その理由を学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからです。

暦学への取り組み

寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)があだ名でした。
「地球の大きさ」について思いを巡らせていたころ、蝦夷地ではロシアの圧力が強まっていました。
至時は忠敬のために、蝦夷地の地図を作る計画を立て幕府に願い出ます。地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いでした。幕府は測量を認めるが、荷物は蝦夷まで船で運ぶと定めました。
しかし、船で移動したのでは子午線の長さを測るための測量ができません。陸路を希望し、地図を作るにあたって船上から測量したのでは距離がうまく測れず、入り江などの地形を正確に描けないなどと訴え、正式に陸路での許可がでました。ただし目的は測量ではなく「測量試み」とされました。

測量道具

 

 

 

 

 

幕府は財政が苦しいため、費用は出せないといいます。忠敬は、測量機械一式のほかに、旅費のため今のお金にして数千万円相当の大金を用意します。
1800年、56歳の時に蝦夷地へ向けて旅立ちました。この後17年間に渡る地図づくりの始まりでした。
6人の測量隊は、一日40キロの距離を歩き、奥州街道を北上。夜は天体観測器で、恒星の位置の違いをはかり、その土地の緯度を計算していきました。
青森からは船で箱館へ。

蝦夷地の海岸線には、きちんとした道などありませんでした。切り立つ大岩を乗り越えて、打ち寄せる波の合間を縫って進みました。5か月後、冬の到来で江戸に引き上げます。この時の記録をもとに作った地図が、幕府も師匠の高橋も感嘆しました。
また、この時の測量で、緯度1度の長さが27里と分かり、これで地球の大きさが分かりました。
翌年、再び蝦夷地測量を願い出ますが、蝦夷地の情勢悪化で延期されます。
そこで、本州の東海岸を測量し、緯度の長さを28里、110・85㎞と算定し直します。この数値は現在の子午線とほとんど誤差のないことがわかっています。
本州の測量を進め、4回目を終えたところで高橋至時の死という思いがけない出来事が起きました。

忠敬が描いた東日本地図が将軍・徳川家斉の目に止まり、幕府の家臣に取り立てられます。
そして、自費での測量から正式な測量家として日本地図の作成を命じられました。残り半分の日本地図完成に向けて61歳の忠敬は歩きます。
その後、10回にわたる測量で、中国・四国・九州をくまなく歩く伊能隊ですが、年々足腰が弱っていきました。17年かけて歩いた距離は4万キロ。地球一周分に相当します。

しかし、日本地図を作るにあたって足りない調査がありました。
それは蝦夷地北岸の測量です。
それを補ってくれたのは、以前、箱館で知り合った間宮林蔵です。間宮は幕府から蝦夷地・北方領土の調査の命を受け、独自の調査を行う中で測量もしていました。この調査結果を提供してくれたのです。

後は、地図に描きだす作業だけとなりました。ところが、1818年、地図の完成を見ないまま74歳の生涯を終えるのでした。

忠敬の遺言の通り、高橋至時の横に葬りました。そうして弟子たちは、忠敬の功績にするために死を隠して製図にあたり、三年後に完成し幕府に納めました。これが伊能図の集大成「大日本沿海興地全図」です。