今井藤七

嘉永2年12月24日(1850年2月5日) – 大正14年(1925年)10月24日)

日本の実業家。北海道の老舗百貨店丸井今井(現・三越伊勢丹ホールディングス傘下)の創業者。

北海道の百貨店老舗と言えば「丸井今井」ですが、このお店のはじまりは明治5年になります。

 

 

生い立ち

1849年(嘉永2年)、新潟県三条市に6男2女の三男として生まれました。
家は6代続いた米を扱う大きな問屋の旧家でした。裕福な暮らしでしたが、11歳の時に町の大火で今井家は全焼し、店の復興は困難となりました。
更に、3年後、父は奉行所役人の恨みを買い、投獄されてしまったのです。これは、信濃川氾濫の時に奉行所は米俵で土俵を作り、流れをくい止めたのですが、奉行所は米俵の代金を米屋に払おうとしませんでした。町のある者が、奉行所の門前にそのことをなじった張り紙をしました。この筆跡が藤七の父親に似ていることから投獄されたのです。

頼みの兄2人たちは、そんな父の面倒を見切れないと家出してしまったため、三男で15歳になったばかりの藤七には、母と幼い2人の弟たちの生活がのしかかることになりました。
藤七は近くの村を駆け回っては米を買い集め、路上で商いをし、そのわずかな利益で一家を支えていました。そのうえ、父親が釈放されるまでの4年間、毎日3度の食事を一日も欠かさず差し入れをして父を励まし続けたのです。
やがて、父親の無実がわかるにつれ今井家に同情が集まり、藤七の噂が流れるようになりました。

そのころ日本は江戸から明治へと時代が変わり、北海道開拓がはじまり一旗あげようと北海道に押し掛けるようになりました。
藤七は自分にもなにか事業をやってみようと強く心を動かされます。

北海道へ

1871年(明治4年)、兄が函館の廻船問屋で働いていたこともあり、新潟港から船で函館へ出発、函館で陶器商武富平作の店に奉公にはいりました。

1872年(明治5年)、21歳の藤七は札幌入りを果たし、創成川畔に小さなかやぶきの小屋を買い入れ、小間物商「今井商店」を開業(丸井今井の前身)しました。
当時の札幌は開拓使が置かれ、急激に人口が増加しており大通公園を挟んで北側には官公庁、南には一般民家が建てられていました。そこで藤七は、人々が官公庁に行き来する際、必ず通る道ということを考えて決めたのです。
すると開店早々、人通りの多いこの場所で、安い商品と藤七の勤勉さが評判を呼び大盛況となりました。

大不況

しかし、開業2年目にして開拓時代最大の危機といわれる大不況に遭います。
札幌は明治6年には開拓工事がひと段落したため、大工や職人らが皆帰国し、開拓使も新事業を計画していなかったので、不景気になってしまい、逃亡者が続出したのです。この2年間の不況で、20数軒あった店のうち、残ったのは藤七の店を入れて3軒だけとなりました。

明治7年、藤七が開業した[今井呉服店]

翌年には、琴似屯田の建設や、開拓使の財政整理のおかげで景気が持ち直し、この不況に耐え抜いた藤七は、明治7年、現在の札幌市中央区南1条西1丁目に新店舗を構えて「丸井今井呉服店」の暖簾を掲げたのです。藤七27歳の時でした。

 

正札販売

ちょうどその頃、物価を吊り上げて利益を高くとる悪徳商人がはびこり始め、庶民は物価高に悩んでいました。そこで藤七は明治12年、自分の店を利益を極限まで押さえた全商品掛値なしの「正札販売」に踏み切りました。日本でも、この正札販売を行っているところは少なく、北海道では初めてのことでした。
この頃から誰ともなく、藤七の店を尊敬と親しみを込めて「まるいさん」と呼ぶようになりました。

明治20年の丸井今井呉服店

いよいよ店舗が狭くなり、明治21年、丸井今井呉服店の西向いの、南1条西2丁目、現在の店舗が建っている一角を買い取り、「丸井今井洋物店」を開業しました。藤七39歳の勝負でした。
北海道は黒田清隆開拓長官が、欧米式開拓法と生活様式を採用したため、その首都札幌には、本州より一足先に様式化の花が咲き、用品雑貨の需要が多かったため、この洋物店の独立は人々の足を運ばせました。

デパートの先駆け

更にその後、大正5年、当時としては最新式の石材構造の3階建て店舗の建設に着手。呉服店と洋物店を合併した百貨店を作り、3階には食堂と催事場を設け、見物客で連日賑わうことになり北海道におけるデパートの先駆けとなりました。
この時藤七は67歳でした。(トップの写真です)

大正13年の年末、札幌本店の食堂付近から出火し、たちまち全焼して外壁を残すだけとなってしまいました。

大正15年、総4階一部5階建の新館

それでも藤七はひるまず、翌年から鉄筋コンクリート4階建ての店舗を建設することを決め、大正15年には完成します。
しかし、その完成を待たずに藤七は大正14年、享年77歳をもって生涯を終えました。

 

今井藤七の商売を成功させたのは、商才ばかりではなく、人柄も高く評価されていました。こんなエピソードがあります。
大正12年の関東大震災で、東京が焼け野原となった時、東京の問屋への恩返しとして、問屋に支払うお金を先払いし、それに加えて自費の100万円と、本店や各支店から、ありったけのお金を集めて上京し、問屋の主人に「これはわずかですが、一日も早く再興するために役立ててください」と渡しました。

札幌市民会館の前に「女神像」が建っています。寄贈者の名前はありません。
この像は昭和32年が丸井今井創業85周年の年でもあったことから、今井道雄社長が寄贈しました。寄贈者名がないのは、創業者藤七の「売名を避ける」とう精神にのっとっているためです。