二宮尊親像

1855年(安政2)~1922年(大正11年)

十勝・豊頃町の基礎をつくった開拓者

二宮尊徳の報徳思想を北海道開拓に導入した人物は二人おります。
一人は幕末の大友亀太郎で、道南(木古内・七飯)と札幌東区の開拓でした。
それから30年後、尊徳の孫・尊親が十勝の豊頃町に入植しました。

 

 

生い立ち

お札になった二宮尊徳

二宮尊徳(幼名金次郎)は小田原を流れる酒匂川の上流に生家が保存されています。関東・越後など約600カ所(村)の農業復興を行いました。

1855年、栃木県に招かれ、長男尊行(たかゆき)を伴い農業指導に当たります。この年、尊行に長男が生まれ、それが二宮尊親(たかちか)でした。
尊徳は大変喜び「二宮の直系として報徳精神を受け継いでもらいたい」
しかし、翌年70歳で世を去ってしまいます。
父から祖父の「天の恵みと先祖に感謝せよ」を聞かされて育ちます。10歳の少年は、尊徳の月命日に8キロ先の墓まで毎月供養に通うことを怠りませんでした。

富田高慶翁傳

尊徳の一番弟子・富田高慶は、後継者として尊親の指導をします。
明治元年、父とともに福島県中村藩(現在の福島県相馬市)に招かれ、ここで農村の建て直しにあたります。17歳の尊親にしてみれば初めての農村指導でした。
ところが、父尊行が病で亡くなってしまったのです。

 

 

農業団体「興復社」設立
尊親は富田と力を合わせて新しい方法を考え出します。
それは会社を設立して開墾に務めることです。
農地や無利子で貸付けをし、金に余裕が出た者は貸付金を会社に納め、また貧しい人々に貸付するというものでした。
明治10年、農業団体「興復社」が誕生。社長富田64歳、尊親23歳でした。
開墾面積は順調に進みましたが明治16年ころから貸付金を納めない人々が続出します。このような状況下で、明治23年富田社長は77歳で亡くなりました。

二宮尊親「興復社」社長
36歳の尊親が社長となり前途多難な興復社となりました。
元々は農村の建て直しのために興復社を設立したのに、報徳精神を生かそうとする人々も少ない世の中になってしまいました。
尊親は方向転換し北海道開墾に目を向けようとしました。かつて祖父二宮尊徳が幕府から任命された時、高齢のため弟子・大友亀太郎を行かせた地でもあります。
明治29年、探検隊を組織し開墾に適した土地を探しに北海道に向かいました。
石狩はすでに肥沃の土地はなく、十勝に入りますが中々良い土地がありません。そのような時にアイヌ人が教えてくれました。
調査の結果、牛首別原野(現 豊頃町二宮)を選びます。
明治30年、山林を含む1,500haの払い下げを出願。第1期移住民75名とともに豊頃村(現在の豊頃町茂岩・現在の豊頃町町役場があります)に移住しました。

移住の条件
『食料・家屋材料・農具の一部は社から保護され、初年度の種子代・開墾料が支給。1戸5町歩の配当で、開墾地一反歩につき、三年目から二年間は50銭、以後13年間は70銭ずつ13年間報奨金を納めると、五町歩の地主として独立できる』

この契約は他の開拓団体と違い、興復社成功の一因となりました。大正7~8年には全員が7~8町歩の自作農になったのです。
移民規約には、勤勉・節倹・風俗・品行に関する規定、災害・灌漑事業のための無利息賦金貸付の規定。
組合規約を協議し、共同出役・互助救済・農業簿記・例会・農休を決めました。報奨金・自作農への目標・互助救済・芋コジなども成功の一因です。
例会は尊徳命日の毎月20日、午後休業して一同に集まり、いろいろな相談をしました。これを芋コジといい、芋を桶に入れてかきまわすと、一個ずつ洗わなくてもみな綺麗になるというわけです。
5年間に152戸が移住、第6期の入植者が完了した時、人口は千人に達していました。

「土地の開墾は大切だが、心の開墾はもっと大切だ」
報徳の教えを、二宮農場の人々にも説き、学校を作り、祖父の二宮神社もつくり報徳精神を伝えます。

興復社

入植10年で興復社の開墾実績は、畑地840ha、道路の設置13キロ、61カ所に橋を架け、300頭の馬を飼いました。さらに排水、宅地、防風林などを含めると、二宮地区は1345haもの大農場となっていました。
基盤が確立された明治40年、53歳となった尊親は故郷の福島県に引き上げました。

十勝にあっては農会長、学事会員、その他の公職に推され、依田勉三、関寛斎らが尊親を訪れます。
郷里に帰った後「二宮尊徳遺稿」編集著作する傍ら、現西宮市報徳学園の二代目校長などを務め、大正11年11月東京において68歳で病死しました。