1852年(嘉永5年3月14日) – 1928年(昭和3年)9月6日)

幕末の会津藩士。
明治、大正期の警察官、開拓者。

会津藩重臣丹羽家(1000石)の分家の子として生まれます。4人兄弟の末っ子でたった一人の男の子でした。曽祖父の丹羽能教は家老。父の丹羽族は100石取りの藩士で、戊辰戦争において越後口八十里越方面の兵糧総督として自刃。
丹羽は本家に男子がいなかったため、五郎は10歳で養子として跡を継ぐことになりました。一躍1000石の主となったのです。
領主になるための勉強に励み、15歳の時、唯一の名門日新館に入学。
ところが、この年(1868年)は明治維新で新政府と幕府・会津連合軍による会津戦争が起こりました。結果、会津藩主は籠城の後降伏、死傷者は460人にのぼりました。
丹羽家も五郎の父は自決、いとこは白虎隊として自決。一族から40人もの犠牲者を出しました。

生き残った五郎は東京に連れていかれ、漬物小屋で捕虜生活を一年半送ります。18歳で幽閉が解かれ、会津に戻れる身となりましたが、彼はそのまま東京で学問を続けることを望みます。しかし、一家の主として家族の面倒を見なければならず、生きるために警察の巡査という道を選びました。
1000石の家禄である主にとって、月給2円50銭は耐え難いことでしたが、ひたすら働き、10か月後、巡査部長という異例の昇進を果たします。

翌年の明治7年、新しく警視庁が設置され、警視総監からはじまる17階級のうち五郎は14番目になりました。
事務才能を発揮し、業務能率向上のため、いろいろな方法を発案します。
なかでも「戸口索引原簿」をカード式にし住民を登録する方法は、画期的なものとして賞賛されます。また警察官のための教科書なども出版します。こうした功績から30歳の時には警部に昇進。
その後、警察練習所を主席で卒業したのち、明治20年35歳の時に、ついに警察署長を命じられました。薩摩藩士が大半を占め、実権を握る中で、会津藩士が署長になるには、並大抵のものではありませんでした。

五郎の夢

五郎には夢かありました。このころ北海道は開拓ブームが巻き起こっており、彼は「ロビンソン漂流記」や各地方の開拓雑誌を読んで冒険心を募らせていました。
警視庁ではそれなりの出世をしましたが、それは1000石の家禄と比較すれば微々たるもの。人生の大きな挽回のチャンス、それは北海道への夢でした。
そのために「いろは辞典」という、今の国語辞典のような参考書を企画出版し、その売り上げを入植資金にと考えます。

明治23年、夏休みを利用して北海道に渡り、開拓長官永山武四郎と会い「旭川方面は交通の便が悪く、資金も多くかかりそうなので瀬棚辺りはどうか」と勧められ、利別原野(今の北檜山町)の調査に入りました。
東京に帰ると、開拓使に利別原野180万坪の貸付を願い出、その許可は翌年の明治24年におります。

解雇

北海道開拓事業が上司に知れ怒りに触れました。「現職の警察署長が、このような事業に手を染めるとは」でした。
しかし、五郎はこれをチャンスとし、18年間勤めた警察官の職業に別れを告げ1891年(明治24年)依願免官となりました。
丹羽は旧会津藩領であった猪苗代千里村の住民12戸と北海道に渡り開墾を始めます。移住者の旅費と半年間の生活費は五郎の準備資金から支給され、明治25年3月、49人の移住民を連れ、瀬棚町を目指します。この時五郎は39歳でした。

荷卸しの松

荷卸しの松

利別原野に到着すると、一面は雪に覆われていました。山の中に大きな松があり、ひとまずこの松を目指して進み、ここに荷をおろしました。
後に、この松は「荷卸しの松」と呼ばれ、今も丹羽村発祥の地として町のシンボルになっています。

うっそうとした密林の中に、寝るための小屋造りから始めました。あたりの木を伐り、屋根は熊笹の葉で覆っただけの掘立小屋ができると、瀬棚に留めておいた妻や子を呼び寄せます。

最初に着手したのは、瀬棚に通じる道をつくることでした。十数日をかけて人の通れるだけの道でした。
入植地はよく肥えた土地でしたが、病気にかかっても医者も薬もなく、夏になると蚊やあぶ、ぶよ、蜂の大群が押し寄せ顔や手足を覆うため、どんなに暑くても、頭を覆っての作業でした。
しかし、秋には苦労が報われ、麦・とうきび・馬鈴薯などが実りました。

玉川小学校閉口記念碑

翌々年には猪苗代からさらに18戸が移住し、1895年(明治28年)には、丹羽自身の家族も移住。妻は翌年から闘病生活が始まり、1904年(明治37年)に死去しています。
1902年(明治35年)には会津、宮城から計55戸が移住し、1907年(明治40年)には会津から30戸が移住。
丹羽は農地の開拓とともに養蚕組合の設立、ため池造成を行い、また小学校、青年学校、新聞閲覧所、郵便局を設立。
1913年(大正2年)には、開拓農地1000余町、276戸1380余人入植の功績を認められ藍綬褒章を受章しました

玉川神社

五郎は移住者の戒めとして「飲酒」は厳しく取り締まりました。北海道移民の多くが、飲酒のために成功しない。また破産する者が多いと何度も聞かされていたのです。
また、丹羽村の将来のため「丹羽村基本財団」を設立します。
金はすべて貯蓄し、自ら所有する莫大な畑を寄付し、また警官時代に作った「いろは辞典」を引き続き売るなどして蓄えた財産をまとめ、村共有の財団法人を国に願い出ました。ところが、国内でも例がなく処理に戸惑いますが、4年後の大正3年にようやく認可されました。
財団の目的は、公共事業の経営とされ、学校教育、神社・公園の経営、道路の開削、図書館の設立、身寄りのない者や貧しい者の救助、老人の介護など、今日の行政のほとんどが含まれています。

移住者に土地を貸し付け、開墾に成功したあかつきには、土地の8割を小作人の所有とする。山林についても一戸あたり一万坪の使用権を与えました。

玉川公園案内図

五郎が入植当時から一貫して行ったのは道路の開削と改良でした。
村人たちに毎日日替わりで、ボランティアによる道路開削作業を義務付けました。次第に村全体に道が出来上がっていきました。
道は単に人や馬の通行の安全だけではなく、楽しく通るもの。人と人とが触れ合ったり、何かを学び取る場所という考えがあったのです。
道路沿いの樹木、山や川、橋などにもいろいろな名前を付け、道端に木や花を植え、所々に腰掛けを置いたりもしました。

「人々の先に立って憂い、人々の後に楽しむ」という精神で丹羽村を発展させ、最後まで会津藩士の誇りと望郷の念を抱きながら、昭和3年、76歳の生涯を終えました。

丹羽村は瀬棚郡北檜山町となり、平成17年に北檜山町・瀬棚町・大成町の3町が合併し「せたな町」となりました。
久遠郡せたな町の合併特例区の一つ北檜山区となり、せたな町の本庁舎は旧北檜山町役場に置かれています。
そうして、「丹羽」「東丹羽」「西丹羽」の地名は今も存在しています。

丹羽村開村70年の年に北檜山町の水仙の里「玉川公園」に丹羽五郎の銅像が建てられました。